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【ショートショート】引越し

初期費用は、敷金やら礼金やら初回の家賃やらで60万円はした。本当は5割のはずの仲介手数料は「審査結構大変だったんすよ」と張り付いた笑みを装備した不動産屋に満額の10割で逃げ切られたが、値切り交渉をする気にもならなかった。入居初日。引越し屋のにいちゃんに『大学生ですか?一人で広いっすね、家賃高くないですか?』と案の定言われたので「親のおかげです」と無難に返答した。引越しは、荷物の回収が済めばすぐに終わった。


家具を買い替えて、引越しをして、結局3桁ぐらい、私のなけなしの貯金は吹き飛んだ。2人で住もうと大学生にしては背伸びして契約を決めたその家に、今はもう、一人で住み始めた。

一人で、夜眠れないから。一人で、家には住めないから。そう言って、いつも誰かと依存的な時間を過ごすことを正当化してきたけれど、寂しさなんて感情らしきものは、とうの昔に飛んでいっていたようだ。私は、引越しの4日前に慌てて購入したダブルサイズの広々した寝具で、当然のように快適に寝ることができたし、その夜は、一度も目が覚めなかった。いつも、見ていたはずの悪夢すら、覚えてすらもいなかった。

家具が増え、物が片付くたびに、私の体は新居に馴染んでいった。以前は22度なんかにエアコンが設定されてないならば、異常な暑さを感じて汗ばんでいた体は、今では空調なんてなくとも、さらさらとした肌触りに戻った。

歓楽街の中心に位置する新居の周辺には、夏ごろによく訪れた就業後も営業している飲食店で溢れているが、私が外出する用事はもっぱら、仕事の会食か大学か、ゴミ出し、スーパーに葉野菜と根菜を買いにいく時ぐらいで、次第に菜食主義に落ち着いたため、外食は選択肢にすらなくなっていた。2日に1度のペースで高級焼肉を食べていたあの頃を懐かしいなんて毛頭思わない。一度も包丁を握らなかった半年間が嘘のように、朝から晩までキッチンに立ち、冷蔵庫の中身をどの順番で消化していくかをひっそりと考えている。リモートワークの合間の40分は、朝方に作っておいた味噌汁を温め直す時間で、朝のルーティンはサラダを混ぜ合わせる作業になった。

床が見えなくなるほどにモノに溢れ、床自体が巨大でマチのないゴミ箱と化していた生活はいつしか終わりを告げ、髪の毛1つすらも落ちてもいないような清潔で広々とした部屋がここ三週間は、少なくとも維持されていた。ハンガーをクローゼットに戻す、ただそれだけの作業すら、ベットから起き上がることに比べれば億劫に感じていたビジネスホテルでの暮らしが、嘘のようだ。

人間って恐ろしい。人間が恒温動物な理由がわかる程に、私は適応能力が高いみたいだ。一人で何にもできないと思っていたのに、案外できるではないか。一人でなんでもやろうとするからいつまでも個人事業主の域を出ない生活を送っているのだけれども。

私が、どんな人生を送ってきたなんか、一切の興味もなくて、私が何者かも知らない人と、最近好きなドラマとか、音楽とか、そういう他愛のない、いつか尽きてしまいそうな話をできればなあ。

私がガソリンスタンドで週30時間働いていても、私の新居が今より10畳狭くても、私の生活は変わらないのだから。同じように、食べて寝て働くだけなんだから。


以前の私なら引越し屋の彼に、「会社やってるんで」と粋がって答えていただろうが、7万円ちょっとの印紙を買って法務局に行ったぐらいで“評価らしき賞賛”と“不必要な起業家という代名詞”を付与される生活にそろそろうんざりしていた。だから今回からは余計な情報は与えないことにした。

『いくら稼いでるんですか?』と立て続けに質問が飛んでくる。ただ、国立大学生として過ごすには困らないぐらいでしかないのに。普通の学生とやらが両親に出してもらうであろう、自己主張を髪色で買うための美容院代とか、6畳の狭いワンルームの家賃とか、退廃的なカラオケで叫ぶために払う2000円のサー費とか。そういうお金の分を、自分で働いているだけであって、どこぞの私立大学の子息のように海外周遊をする程に時間もお金もあるわけではない。自身の若い体と鬱屈した精神を、お金に換金しているだけであって、本質は飲食店の常に交換可能な時給1150円のホールバイトとなんら私は変わらない。少しばかり、両親がなけなしの血縁関係という愛情で、教育を施してくれたことがあったが故に単金が相対的に世間平均よりは高く、過処分資産を多く所有しているように見えるだろうが、私はその分様々な娯楽や自由を切り売りしているのだから、当たり前の結果である。朝から晩まで15時間連続、楽天で買った安いオフィスチェアに座り続け、ZOOMの画面を凝視して話し続けることができるなら、大学にまるまる4回分、通える程には誰だって紙幣が手に入る。そういう、時代だ。ワーキングプアと、貧困シングルマザーと、20代第一新卒と、19のペーペーの私と、富裕層の子供が、同じ世界に同じように存在する。同じように恋愛に苦しみ、同じように飯を食い、同じように友情に感動を覚える。そういう世界だ。

だからこう答えた。「ご飯は自分で食べられるぐらいでしかないですよ」と。そうすると、にいちゃんが無邪気にこう言う。『引越し会社の支店が近くにあるんですけど、女の子も働いていて、結構時給良いんですよ。時給1600とかでるので。バイトでもどうですか?』と。

気のいい爽やかな笑顔の彼は、同じ新築のマンションに何度か、別の新住人からも仕事の依頼があったようで、その後も2回ぐらいは顔を合わせた。良い奴だと思った。仕事が早くて、冷蔵庫の下敷きをアップセルしようと、おそらく派遣会社のマニュアル通りに規定の文言を話すことを頑張っていて、健気だった。

払う側と、払われる側という関係性がなければ、20歳の彼と友達になれたと思った。彼と友達になれる私であればよかったと思った。

FIN.





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