「『気づき』のある暮らし/序
今、窓の外では、雪が、ゆらぎながら、静かに舞い落ちている。
やさしい雪だ。春はもうすぐ、そこに来ている。
深い雪の中でやがて来る季節を想ってみる。
やがて来る季節。
畔にはオオイヌノフグリが、咲いている。
ブナの森から吹いてくる風が柔らかい稲の絨毯を渡っていく。
山鳩が、鳴いている。
そこに私も、いる。
里と山。
人の暮らしと自然の営みが滲むように混ざり合い、そこに境目はない。
深く息をする。
私を包むまわりが私の体の隅々へとしみわたる。
そして私は吐く息とともに空へと広がっていく。
やがて私と周りの境目がうすぼんやりとしていく。
森の木々も稲も畑の野菜も、牛舎の牛も山のクマも小鳥も、
同じ空気を吸っている。
やさしい風が私の頬をなでていく。
分け合っている。
共有している。
同じ大地で生きている。
目を閉じると、瞼にオレンジ色が広がり、全身に太陽の温かさがしみてくる。
おだやかで、平和で、豊かだ。
溢れそうに満ちた、この気持ちを、誰かと、わかちあいたい。
カリフォルニアのシェラネバダ山中で一週間、素敵な時を過ごした時のことだ。
ある人がたずねた。
「東京に帰っても、この気持ちでいるためにはどうしたら良いのですか?」
そこに暮らす人が答えた。
「月に一度、自分のためだけに自然の中へでかけなさい。それが唯一の方法です。」
信州の田舎に暮らす私にとっても、それは、大切な掟になった。
都会に住む人だけがおだやかで豊かな心持ちを維持するために困難を抱えているわけではない。自然に囲まれた田舎に住んでいたとしても、自然と心を通わせることができなければ、同じことだからだ。
大切なのは自然に身と心をゆだねることだ。そして、感じることだ。
私は時々、自然案内人となり、人を自然へと誘う。しかし、それは生業ではない。生きている楽しみの一部だ。そして、私は農夫でもない。木こりでもない。生業は他にあり、ただ田舎で暮らしているだけだ。だから特別な智慧はない。そんな私でも自然が先生となってくれるお陰で、なんだか豊かな心持ちで生きてこられた。
やがて来る春を想うように、私の日々を思い返してみよう。そして、暮らしを包む里山を想い描いてみよう。私はそこから何を感じて生きているのだろう。これからも心豊かに生きるために、田舎の暮らしをふり返ってみよう。
気軽に散歩でもする気分で私の暮らしをたどってみよう。
あなたもご一緒にどうぞ。
一人も楽しいけれど、その楽しさを分かちあえたら、もっと素敵になるはずだから。
私が暮らしているのは、長野県飯山市。長野県の最北端部。新潟県と境を接する関田山脈が連なり、その麓に市の中心を千曲川がゆったりと流れている。
日本でも有数の豪雪地帯で、市の北部では毎年、平地で3メートルを越える積雪がある。平成18年には、豪雪により自衛隊の災害派遣を要請したことがある。市内を貫いて走るJR飯山線。隣村である栄村の森宮野原駅では、昭和20年に駅前で7メートルを越える積雪を記録している。豪雪を自慢し始めるときりがない。
雪は、過ぎれば苦となるが、暮らす者に楽しさと豊かさをもたらす。スキーやボード、スノーシューなど雪の遊びはもちろんだが、豊かさの最たる物は、清き水だろう。そして、盆地気候と相まって、食味日本一を何度も獲得した美味しいお米が、たくさん穫れる。水と米が良いとなれば、酒も旨い。
連なる山々には日本の原生自然を象徴するブナの森が広がっている。
連なる山、流れる川、広がる田畑。深い緑。
唱歌「ふるさと」や「朧月夜」の作詞者、高野辰之は隣村の出身で、歌に謳われた「うさぎ追いしかの山」などの風景は、この地のものと言われている。我が家からもその山が見える。日本のふるさとの原風景が、ここにある。
自分が暮らす飯山の自慢をしてみたが、日本の里山は、それぞれにいい。雪が降らない土地の乾いた冬枯れの森も私は大好きだ。乾いた落ち葉の上で冬の太陽を浴びて昼寝がしたい。お椀を伏せたような、こんもりとしたかわいい山がぽこぽこと連なる東北の里山風景も好きだ。ミカン畑やお茶畑が広がる海が近い里山なぞ憧れすらある。
自然と共に生きていれば、里山の暮らしは、どこでも豊かだ。それは、心の問題だけを言っているのではない。物だって豊かだ。それは、お金に換えて量っても意味がない。食べたり、交換したり、お裾分けして、笑顔で量るとその価値が分かる。
田舎暮らしを本当に豊かにするものは、自然とのつながりを大切にして、そのつながりを実感する生き方ではないだろうか。何をどう感じて生きているかということだろう。
しかし。心は、なかなか裸にならない。それは、常に先入観というものが私たちにはあるからだ。「裸の心」というのは、難しいらしい。
先入観を持たずに体験するにはどうしたら良いだろうか。それには、五感で感じることだ。五感を使って直接、「心で感じる」ことだ。自然に、直接触れることだ。肌で、目で、鼻で、耳で、そして舌で。それが、先入観のない裸の心で感じるということだ。
私たちが「自分で判断した」と思っていることも、実は脳の経験則が事前に用意している答えに過ぎないという。もし、里山の暮らしを貧しいとか、大変だとか、思う人がいたとしたら、貧しくて大変な経験しかないのか、本当の里山体験をしていないのだろう。里山に暮らすお年寄りは、貧しさを微塵も感じているようには見えない。きっと素直な子ども時代から豊かな経験をしてきたのだろう。
里山の暮らしを豊かだと思うのも、実は経験則からくる先入観に過ぎないのかもしれない。五感で感じたことを「いいなぁ。素敵だなぁ。」と思う体験を繰り返した先に生まれる想いだからだ。都会の暮らしを豊かだと思う人からしたら、それは客観的な「豊かさ」を示す指標もない「錯覚」とでも言いたくなるようなことばかりかもしれない。でも田舎暮らしの豊かさが都会の豊かさと違うのは、ストレスがないことだ。心が疲れてくることがない。それは裸の心が本当に「いいなぁ、素敵だなぁ」と感じているからだろう。
思い返せば、私の暮らしは、その「いいなぁ。素敵だなぁ。」と思うことの繰り返しだ。お陰で、里山の風景を眺めているだけで、ふと「幸せだなぁ。」などと思ってしまう。私の脳がたくさんの経験からそう思うようになっている。
私は、どんなことに出逢い、どんな経験を重ねてきたのだろうか。思い返して、それを心で反芻することで、さらに里山の暮らしに満足を覚える経験則が深まっていくのかもしれない。
私の体験を思い出していくことにしよう。
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