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「『気づき』のある暮らし」/《カモフラージュ》

 里山は、一見すると「何もない」ように見える。でも眺めていて厭きることのない風景ばかりだ。
 何もないように見えても、山に行けば美しいブナの森はあるし、山の中腹から眺めれば美しい棚田も見える。でも、見厭きない理由は、そこに何かが見えているから、ではないのかもしれない。

 いくら眺めても厭きの来ない自然風景には、二種類ある。
 ネパールに行き、ヒマラヤの山並みを目の前にした時もそうだったが、圧倒されるような自然風景は呆然と眺めながら、見厭きることがない。それは人知を越えた存在に対する畏敬の念とともに、どこかに緊張感も強いられるものだ。
 一方で里山の風景のように人の暮らしと結びついた美しい自然の風景は、眺める人の心に緊張を強いるものがない。逆に、ほっと心を和ませてくれる。
 圧倒的な大自然の風景は、人の心を無にしてしまう。それは人が理解することを放棄せざるを得ない存在だからなのに対して、人の暮らしとつながる日本の里山の風景は、いろいろな想いをかき立ててくれる。そして、それは温かさへと通じている。

 里山の風景を眺めていると、それは皆、人が長い時間をかけて自然と折り合いながら共に作ってきた風景であることに気づく。
 山の隅々まで人が通い、里と山とがつながっている。昔から人の手が入ることで生まれた自然風景だ。実は、この人の手が入っている里山だからこそ自然が豊かなのだと教えられたことがある。

 ホットスポットという言葉を知っているだろうか。
 原発事故のお陰で悲惨なイメージを持つ人が増えてしまった言葉かもしれないが、そもそもは、生物の多様性のルツボのことを言う。
 ホットスポットとは、アマゾンのように数え切れない生物の多様性を持ち、未だ発見されない生物の数も計り知れないような場所のことだ。生き物の多様性を示す場所をさす言葉だ。ただ、いわゆるホットスポットは、数キロという大きなメッシュで見たときの話しなのだという。マクロとミクロ。視点を変えるとホットスポットの概念が変わるというのだ。
 アマゾンの数キロという広い範囲では、確かに数え切れない植物や生物が生息しているが、わずか十センチ四方の小さなメッシュで見ると、生物の種類はぐっと限られてくる。狭い範囲で見ると意外に単調な生物様相なのだ。
 一方で、南極や北極など極地に近い厳しい環境下では、広い範囲ではそれほど生物の多様性はないが、十センチ四方の狭いメッシュの中に数多くの種類の植物や生き物がいるというのだ。
 狭い範囲で見ると、生きる環境が厳しいところの方が、多様性に富んでいる場所があるらしい。アマゾンがマクロのホットスポットなら、極地はミクロのホットスポットと言えるのだという。日本にも高山の強い風が吹きさらす高木が生えないような厳しい環境下に、このミクロのホットスポットが存在するのだ。そして、なんと里山にもそれに並ぶミクロのホットスポットがあるという!

 生きることに対する厳しい環境、それを生き物へのストレス(侵襲)と考えると、人の手が入り続けている里山も極地と同じようにミクロの多様性を生む侵襲性の高い環境にあるのではないか、という仮設が成り立つのだという。
 例えば、年に何回も草刈りが行われるような場所は、背の高い精力の強い植物に独占されることなく、多くの種類の植物が生息できるようになるのだ。

 ぶらぶらと里山の散歩を楽しむ時、試しに農道の脇や田んぼの畔、段々畑の法面など、こまめに草刈りがされている場所を見てみよう。・・・およそ十センチ四方で植物の種類が多そうなところを探して、種類の違う植物をカウントしてみよう・・・

 何種類見つかるだろう?
 十種類を越えたら、かなり多い方かもしれない。でもそんな場所は、里山にはざらにある。わずか十センチ四方に何十種類も見つかる場所があるらしい。神社の境内などもかなりホットらしい。よく手入れされた草地をみつけたら、あなたもチャレンジしてみたらどうだろう。ミクロの驚異のホットスポットが足下に隠れているかもしれない。

 マクロとミクロ、その両極端の視点ではなくて、中くらいの視点で里山を見たらどうだろう。田んぼや畑、ため池や用水路、雑木林に人工林。狭い範囲に驚くほど多様な環境が揃っている。そして、それぞれに多様な生き物が生きている。里山は生物多様性のホットスポットと言えないだろうか。
 里山は「何もない」ように見えるが、実は多様なのだ。いろいろあるのだ。そしていろいろ「居る」のだ。それが、実は眺めていても飽きることがない風景の秘密なのではないだろうか。
 私たちは、里山を眺めながら目に見えないたくさんの「命」を感じて、心に温かさを感じているのではないだろうか。そんなふうに私は思う。

 目に見えない存在を自覚していること。目に見えない存在と共に生きていることをいつも感じていることは、心に温かい火を点してくれる。
 目に見えない存在とは、決して神様のことを言っているのではない。生き物たちのことだ。

 こんな活動がある。

 自然の中に本来はない人工の物、例えばプラスチックの人形や木製のクリップなど。素材が自然の物でも人が加工した物もそれに入る。その人工物を、置いたりくっつけたりしてコースに仕掛ける。何かの下に隠したりするのではなく、目線を変えたりしたら必ず見えるようにしておく。それを視覚だけで探し出してもらうのだ。触ったりしてはいけない。一列になって順番に一人ずつ探していく。

 チャレンジ1回目は、みんなさっさと探し終わり、「ふむふむ、こんなものか。」という感じで私の耳元でみつけた人工物の数を報告する。すると大概の人は、半分くらいしか見つかっていない。それを告げるとみんな驚く。「え〜っ!そんなにあるの?」
 一度で全部を見つけられなかった人は(ほとんど全員がまずそうだが)もう一度チャレンジすることが出来る。
 スタート地点へ戻って二回目。今度は目の色が変わる。もちろん探し方も変わってくる。立ったり座ったり、姿勢まで変えて、進むスピードも格段にゆっくりとなる。草むらや藪をなめるように探すようになる。
 最初は見つからなかった物が次々に見つかり出す。見つけて「にやり」とするうれしそうな顔を見ていると仕掛けたこちらも楽しくなってくる。
 それでも、どうしても見つからない物がある。答え合わせをしてみる。

 誰でもすぐに見つけられたものは、色がハッキリしているものや大きなもの。黄色い造花やプラスチックのミカンは離れていてもすぐ見つかる。実際の自然でも本物の花や果物は、草むらや木の葉の中で目立っている。
 自然の花や果物はなぜそんなに見つかりやすい色をしているのだろうか。なぜすぐ見つかるのだろう。
 花は、目立つ色で虫に見つけてもらい、花粉を運んでもらう。甘い蜜のご褒美まで出して。実も目立つ色で見つけてもらい、動物に食べてもらって種を運んでもらう。美味しくて栄養のある果肉のご褒美を付けて。虫や動物に見つけてもらわないと子孫を残していけないからだ。自然の中の色や形には全て何かの意味があり、メッセージが隠れている。

 誰も見つけられなかった物は?

 まるで蔓のように枝に巻き付いている針金!
 葉と一緒にぶら下がっている緑色のクリップ!
 落ちた枝のように草の上に置いてある古釘!
 枯れた笹の葉と同じ色の木製クリップ!

 大勢の人の目を持ってしても見つからなかった物は、自然の物に見事に擬態(カモフラージュ)したものばかり。自然の中に溶け込んで隠れていたのだ。
 これと同じように見事に擬態している生き物をあなたもたくさん知っているだろう。
 枝に化けているナナフシ。
 葉っぱにしか見えないコノハガ。
 蘭の花に隠れているハナカマキリ。
 水の中には、タコ!ヒラメ!
 
そういう生き物たちは、なぜカモフラージュしているのだろうか。それは天敵に見つかり捕食されないため。そして一方、天敵側の生き物は、見つからないように隠れて獲物を待ち伏せているのだ。厳しい「喰う、喰われる」の生存競争の中で生き抜くために見事な擬態の技を身にまとっているのだ。

 この活動をすると集中力が高まる。観察力も高くなる。何よりも生き物たちの「カモフラージュ」の仕組みを理解できる。しかし、私は、この活動を一緒にした後のこどもや大人に、生き物を見つけることが出来る観察眼を身につけて欲しいと願うわけではない。驚くべき生き物たちの生態を知って畏敬の念を深めて欲しいだけでもない。それよりも、一所懸命に見つけようとしても見つからない生き物たちがいるということを知って欲しいのだ。そして、眼には見えないけれども、そこに生き物がいるということを想像できる心を養ってほしいと願う。目には見えないけれども、自分の周りにはたくさんの生き物がいるのだということを実感して欲しいのだ。
 それは、「眼に見えないもの」が見える心を持つことだ。眼には「見えない命の存在」を感じる心を持つことだ。
 活動を終えて、私は言う。「周りを見てみて。今、目には生き物が見えないけれど、実はたくさんの生き物たちがいるんです。だから私は、草原を見て『ああ、たくさん生き物がいるなぁ』、山を眺めて『ああ、いっぱい生き物がいるなぁ』、橋から川を見て『たくさん生き物があいるなぁ』、海に行ったときは、水平線まで眺めて「すっごい!生き物だらけだ!」って思うようにしている。そう思っていると、自分はどれだけたくさんの命と一緒に生きているんだろうって感じる。一人じゃないんだ、たくさんの生き物たちと生きているんだ、って実感する。草も木も生き物、この足下にも生き物が数え切れないほどいる。地球は命で覆い尽くされた奇跡の星なんだよ。」と。

 漫然と眺めている私たちの眼に見える生き物の数は、実際に身のまわりに生きている生き物のうちのうちのほんのごくわずかでしかいないのだ。眼には見えないだけで、生き物たちは、あなたの周りにたくさんいる。それをあなたの心の眼でいつも確かめて、その存在を感じていて欲しい。
 あなたの眼に映る森に、山に、川に、湖に、草原に、田に、畑に、道端の草むらに、たくさんの生き物が生きている。そして、その生き物たちと一緒に生きているということを実感していて欲しい。出来れば、そのことに喜びを感じて欲しい。と私は、想う。そして、そう願う。
 里から見える山を見回して、ああ、たくさんの生き物に囲まれて生きているな。同じ時を、同じ場所で生きているんだな。そう想う時、周囲にいる人たちにも同じ想いが湧いてくる。

 今あなたの眼には見えない地球上の至る所に、たくさんの生き物がいる。あなたは、その生き物たちと同じ地球に一緒に生きていることを感じているだろうか。そしてそれは、あなたを温かい気持ちにしてくれているだろうか。

 こうして改めて想う。里山って豊かだな。命が、いっぱいだ。

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