「『気づき』のある暮らし」/《はじめまして》
あなたは.森の中で動物に出会ったことがありますか?
動物たちとの出逢いは、いつもドキドキさせてくれて、後になって心がほっこりと温かくなっていることに気づかされる。
雪がまだ残る春の清里の森で、ブルーシート一枚と寝袋とビスケット数枚だけを持って、24時間を過ごしたときのことだ。それはナチュラリストの端くれになるための訓練だった。
秋に葉を落として裸になった落葉樹の森は、明るい。林床は一面の雪が陽を反射して光にあふれている。
ミズナラが倒れ、空が大きく開いて一際明るい場所を居場所に決めた。二畳ほどの大きさのブルーシートの片隅を低い枝に留め、吊すようにして残りを雪の上に敷き、その間に寝袋を敷く。晴れの予報だが、屋根が欲しかった。
どれくらい冷え込むのかも想像できないが、寝るときには寝袋をブルーシートでくるむつもりだ。
自分の基地、サイトをつくり終えると、私は、自分が一昼夜を過ごす周囲の森を偵察しに出かけた。
森はとても静か。
でも、すぐににぎやかな場所に思えてくる。
雪の上に動物たちの足跡があちらこちらについている。タヌキやウサギ、キツネ、小さなリスが森を自由に行き交っていた。コガラやシジュウカラ、小さなキツツキのコゲラが混群となって、葉を落として空が抜けて見える森の木々の枝先を鳴き交わしながら渡っていく。私が入り込んだ森は、動物たちが暮らす自然の只中だった。
足跡を残し、その存在を主張している動物たちだが、いくら見回しても昼間の森にその姿はない。彼らは夜に活動するのだ。今はこの森のどこかに隠れているのだ。そう思うと、どうしても見てみたくなる。動物たちとの「かくれんぼ」の始まりだ。
私は、待ち伏せをしてみることにした。昼間のうちに待ち伏せに相応しい場所を探し、彼らが活動する夜に、そこに隠れて待ち構えてやることにした。
動物の足跡をたどると、何度か同じところを通った場所がある。しかも、タヌキもキツネも通っている。雪の上の獣道だ。ちょっとした沢の窪地を登ってきて大きなカラマツの根元を通って森の奥へと足跡が続いている。そのカラマツは、私が姿を隠すのに充分な太さがある。動物が沢の下から登ってきたら、気づかずに私のすぐ足下を通っていくかもしれない。通り過ぎざまに私が背中を触ったら・・・驚くキツネの顔が見てみたい!
日はとっぷりと暮れ、木々の間から見上げる空には半月が昇ってきた。月明かりが雪に反射して森は薄明かりだ。動物を充分見ることが出来るし、隠れるにも丁度良い暗さだ。
自分のサイトで夕食にビスケットを二枚食べると、私は昼間に見つけておいたカラマツの下へと向かった。
一抱えもある立派なカラマツの大木に額を預けて木に寄りかかる。額からすうっと木の中に自身が溶け込んでいく、そんなイメージを持つ。冬の木は、水も吸い上げずにしんと静まっている。そうして私自身も木になりきる。ネイティブアメリカンは、狩りの時にそうやって自然の物になりきって、自分の気配を消して獲物が近づくのを待つのだという。
森は風の音ひとつなく静かだ。近づくキツネの足音さえ聞こえそうだ。時々、風もないのに、枝が折れるような音が森の奥から聞こえ、どきりとする。
いろいろ考え事をしていると、その雑念が気配となって動物に察知されてしまうかもしれない。そう思って雑念を消そうとしても座禅と同じ、次から次ぎに頭の中に何かが浮かんでくる。
木になりきろうとしてみる。カラマツになったつもりで、どこまでもまっすぐに空に向かって伸びている自分を想像してみる。
今、自分は森から星空へ頭ひとつ飛び出している。森の上はわずかに風が動いていて、私は星空の下でゆっくり揺れている。足下の根は、雪の下の大地に深く伸びている。大地にしっかりと根を張っている。そして、私の腰のあたりに雪の大地が広がっている・・・。
そんな想像を夢中になってしているときだった。
背中の方の森の奥から・・
「どさっ、・・どさっ、・・」
何かとてつもなく大きな物が雪を踏みつけながら近づいてくる音がする!
* ・ ・・・「そういえば・・」
昼間、森を偵察しているときに、夏場、小径になっているところに「熊出没中」の看板があった。そんなことを思い出している間にも
「どさっ、・・どさっ、・・どさっ、・・」
熊が近づく音が大きくなってくる。どんどん近づいてくる。しかも、私の背中に向かってまっすぐに。
遠くからでも気づいていたに違いない。
私が森に侵入していることは昼間から気づかれていたに違いない。
熊は、森の主だ。
「どさっ!、・・どさっ!、・・」
もうわずか4、5メートル。もうだめだ!
そう思ってふり返った、その時、
そいつは、振り向いた私に驚いて、一瞬、固まった。
私と目と目が合った。
そして、次の瞬間から、その場で・・
ウサギのダンスが始まった。私の目の前で、
その場で、ぴょんぴょんと跳ねる。あっち向きに、こっち向きに。でもどっちにも進まない。ウサギは、突然のことに驚くと、パニックになって、逃げようとして跳ねても思うようにいかなくなるのだ。
4度目ぐらいのジャンプでようやく自己制御が可能になったウサギは、そのまま、あっという間に森の奥へと逃げ去っていった。
「野ウサギだったのかぁ・・・・」
ほっと、しつつも、段々とウサギに出会えたうれしさがこみ上げてくる。しかも、生まれて初めて「ウサギのダンス」の本物を見られた!なんてことだ。なんて素敵な夜なんだ。満面の笑みがこぼれる。
このうれしさを誰かに伝えたくて、遠くにいる誰かに伝えたくて、笑顔のまま空を見上げる。
カラマツの枝越しに見える夜空には、星が一際、輝いている。星や月は、いつもこんな森のドラマを見ているのか。
私の心臓もドキドキしている。あのウサギの小さな心臓もさぞかしドキドキしているのだろう。驚かして、ごめん。でも俺も驚いたよ。
しかし、なぜあんなに大きな音がしたのだろう。
その理由はすぐにわかった。近づいて来たウサギの通った跡には、ウサギの大きさの大きな穴が開いていた。ウサギがやってきた場所は、クマザサが生えていて、その葉が重なり合う上に春に降った雪が板のように層になって固まり、下に空間を作っている。ウサギが跳ねる度に身体の大きさ分、それを踏み抜いて来たのだ。
寝袋に入っても静かな興奮が続いていた。
見上げる空の星も私の心のように煌々としていた。夜の森を行き交う動物たちのことが、ありありと想像できた。私は、動物たちと同じ森にいた。
翌朝、雪の森には光が満ちあふれていた。
私は、森を散歩し、腰掛けるのに丁度良く曲がった松を見つけた。腰を下ろして手紙を書き始めた。
未来の自分に宛てた手紙だ。私はそれを誰かに託す。託された人は、未来のある日、その手紙を投函する。未来の私は、ある日、忘れていた過去の自分からの手紙を手にするのだ。
私は、森での出来事を手紙に書いていた。その喜びを添えて。未来の私は、このことを忘れて日々に追われているかもしれない。それとも、ちゃんと覚えていて、さらに成長した心でこの出来事を微笑ましく思うのかもしれない。私は、出来る限り素直な気持ちを手紙にしたためていた。
手紙を書く自分を誰かが見ている。
そんな気がして手紙から目を上げて前を見ると、ほんの2メートル前の切り株の上に、ちょこんと立って、リスがじっと、こっちを見ている。
また、動物と目と目があった。
リスは、一瞬だけたじろいだが、じっと私を見つめ返す。透き通るガラス玉のような瞳。あまりに透き通っていて世界の向こう側が見えてしまいそうだ。見つめ合うリスと私。
リスの瞳から何かが私に届いたような気がして、私は思わず微笑む。リスは、表情を変えずに見つめている。ディズニーアニメのようにニコッと口角を上げたりはしない。
私は、こんにちは、とお辞儀をする。リスは、それを確かめると、向きを変え、ぴょんぴょん、ぴょんぴょん、と雪を渡り、そして木の上へ戻っていった。
私の手紙を書く手は止まった。
生き物たちに、「この森にいてもいいよ」と認めてもらえたような、そんなうれしさがこみ上げていた。
この気持ちも手紙に綴りたいと、今体験したばかりのことを心で確かめてみる。すると、うれしさだけではない、何かとても大切なメッセージを託されたような、でも、それを理解しきれないもどかしさが心にひっかかる。
「・・・でも、このことは秘密だよ。」
と言われたような気がした。
もっと良く聞こうとすると、「まだ、秘密だよ」と言っていたような気がしてくる。
「このことには、まだ秘密があるんだ。」と。
私がもっと理解しなければならない森の秘密があるのだ。私は、そのヒントに触れただけなのだ。
リスは、じっと私の心をのぞき込んで、森の秘密への私の理解度を推し量っていたのかもしれない。
リスは、伝言がちゃんと伝わったのか確かめるために、今もどこかで私を見ているのかもしれない。
そう思って森を見上げてみたが、リスの姿は、もうどこにもなかった。
私は、何度か森で動物たちと出会った。
私は、里山で猿の群れに囲まれ、岩を巻く道の突端でカモシカと鉢合わせし、ブナの森で熊に追いかけられた。
動物たちは、その度に私の心に森からの伝言を残していく。
「もっと、耳を澄ませよ。」と。
そして、とても温かな親愛の火を点していく。