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「手放す」という成長

僕にとって、「何かをしない」という意思決定は「何かをする」という意思決定より難しい。それぐらい自分の何かを手放すのが苦手だ。

一度、手に入れたものを「手放す」ともう戻ってこない様な気がして恐ろしい。特に、それが仕事や作業であった場合はなおさら。

僕には自分の居場所を機能で作ろうとする癖がある。

だから、自分の仕事がなくなったとき、「自分の居場所はなくなるのではないか?」と思い、過度に仕事を他人に取られることを恐れた。

そして、その結果タスク過多になることを多く経験してきた。
こういうのが自分の場所を守るマウンティングに繋がるんだろうね(笑)

頭で解っていても、できない。それが本質なんだと思う。


ただ、少しづつ自分の内省が進むと、自分にとって「大切なモノ(背負った方が良い荷物)」と「そうじゃないもの(背負わなくて良い荷物)」が解ってくる。

今は自分が持っていた肩の荷物を少しづつ落としていっていると思う。
だいぶ肩こりも解消されそうだ。

きっと、「何かを手放す」フェーズの前には、「何かを手に入れる」がフェーズがあるのだと思う。

色々やってみて、いろいろな物を手に入れてみて、そこでふと立ち止まって自分の幸せについて考えてみる。

そこから、恐れずに徐々に徐々にスコープを狭めてく作業がとっても重要なんだと思う。


今回の#勝手にコルクラボで出されたお題は、正にそんなことを考えるお題。

「あなたが手放したものは?」


んー。超いいお題。
考えた人のセンスが光り輝いている。

これも前回に続き、とっても難しい。

まだあんまり言語化できてないけど、僕は今までに自分にとって大きい二つのものを手放したと思う。

僕が手放したものは

・自分への過度な期待
・仲の良い家族関係(仲の良い家族芝居)


の2つかなー。
正直まだあんまりしっくりはきていない。


◇◇◇
一つ目は「自分への過度な期待」

僕は昔から、偉い人と話すのが苦手だ。
色々理由はあるけど、すごい人と話をして、自分のちっぽけさに気づいたり、無能さを指摘されるのが怖いというのが一番の理由だと思う。

だから、無能だとばれない様に、嘘をつき、距離を取るようにする。
「自分はできるやつだ」と信じたくて、傷つくのを過度に恐れた。

そうすると、僕は自分より能力で劣っていると思った人を、詰め(マウンティング)だした。

人間って怖い。

「できない自分を認めずに他者を詰める」自分が大嫌いで変わりたいと思った。これにはすごーく時間がかかったのです。

今では、できないことを認め、自分への過度な期待を捨てれている。。。。。。と思う

「それ僕できないんで」が最近の口癖になっているのがいい証拠だ(笑)

自分への過度な期待を捨てたのに、自分のことを好きになりだしたのは、結構深い気がするので、それはまた別の機会に書きたい。


◇◇◇
二つ目は「仲の良い家族関係(仲の良い家族芝居)」


僕は、小さい頃からとっても大切に育てられたし、何不自由困ることはなく生きてきた。僕以外の家族は仲良いし、周りからみてもとっても幸せな家庭だったと思う。

当たり前に、自分は家族が好きなんだと信じ込んでいた。
というか「苦手」と言ってはいけない気がしていた。

でも、最近気づいた。

「あー、僕演じてるな。これは自分ではないな」

実家にいる時の自分、家族のことを他人に話す自分が自分らしくない。
どこか綺麗な言葉を並べてしまう自分がいる。

大切に育ててもらったので、いい子を演じてたんだと思う。

それに気づいた日から、両親と自分の考え方を雪崩のようにすり合わせし出した。僕がうつ病になったこととか、将来のこととか、親が介護状態になった時のこととか。

親にしてみれば、遅れてきた反抗期の様に写ってるだろう(笑)
すり合わせればすり合わせるほど、考えが違うので、僕単体での家族関係は悪化しているように思う。

でも、それでいいんだ。家族だからといって全てを共有する必要性はないし、解ってもらえなくても仕方ない。

これでも自分を偽っていた頃よりはだいぶましだし、自分の気持ちを正直に伝えてこなかった僕の責任だから。

当たり前だけど、両親にはむちゃむちゃ感謝はしている。

今年のお盆も友達のいない実家に通過儀礼的に帰るのは、いい子を演じているのだろうか?

せっかくの機会なので、また一つ自分の考えを親とすり合わせたい。


(ばいばい)


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