そもそも全体だったことを思い出す

普段、私たちは

「こうすべき」
「こうであってはいけない」

という思いを抱くことで
勝手に不幸になっています。


逆にすべてにおいて
「これでいいんだ」
と思えたら、幸せです。


まさに、
天才バカボンのパパ、
「これでいいのだ」の世界(笑)


私たちは、
起きる出来事に対して、

「こうすべき」
「こうであってはならない」と
ジャッジしていますが、

それはいったい
誰に向けて行っている言葉なのかといえば、

その現象をつくりだしている
全体(神、宇宙、サムシンググレードなど言い方はそれぞれ)
に対して言っている言葉。


全体の一部である私たちが

全体に対して、
「こんなはずはない!」
「こうすべきだ」と

抵抗したり、
文句を言ったりしたところで
勝ち目はないことは明らかです。

部分 vs 全体
勝ち目はありません。


だから、起きた出来事に対して、
潔く抵抗をやめること、

これが
起きる出来事を
「受け入れる」ということ。


そうやって
抵抗をやめて、
これでいいのだ、と
完全に力が抜けた時、

私たちは最初から全体であったことに
気が付くことができます。


そもそも最初から
私たちは全体の一部だったのですから

抵抗をやめて
受け入れたところで
何も失うことはなく、

逆に
小さく固執していた
「自分」というものがなくなって
全体を感じることができるようになります。

とはいえ、
日々の生活の中では

起きた出来事に対して
その瞬間に判断をして、

「これはダメ」「あれはダメ」
「もっとこうすべき」
「ああすべき!」

となりがちなのが私たちの日常です。

忙しければなおさらです。


その瞬間は
そんなジャッジが心に沸いてきたとしても、

数秒後、数分後、数時間後には、
そこか一歩引いて
出来事を観察して、
自分の中の「判断」や「ジャッジ」を捨てて、

深呼吸しながら
そう思ってなかったとしても
「まぁいいか」と口に出していってみる。

口に出す(身体を動かす)ことで、
心があとからついてきます。


すると
そこからまた次が見えてくると思います。


思考の癖がありますから、
良い悪いなどの
ジャッジ癖が強い人は
なかなか最初はハードルが
高いかもしれませんが、
できることから少しづつですね。

アーユルヴェーダやヨガ、瞑想の習慣は
思考に巻き込まれがちな
私たちに

「思考に巻き込まれてますよ」
「またジャッジしてますよ」

という気づきを与えてくれます。

取り入れられるところから少しづつ。


今日も寒い1日でしたね、
暖かくしてお休みください

(write by アーユルヴェーダ専門サロンMyCocoon)

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