見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(32)2010.3.4

この国のプライマリ・ヘルス・ケアのゆくえ- 21世紀の日本人が<納得のいく生>を作っていくために 【1】

1.デビッド・ワーナーさんが残していったもの

 またまた、遅筆家の言い訳を前口上で述べることになり、ほんとうに申し訳ありません。この「ひとりごと」で書き継いできたプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)という主題の3回目、「日本篇」を書いて、いったんのまとめをしなければと思いつつ、筆が泥(なず)んでいました。多くの方々がご存知のように、シェアは昨年10月末、デビッド・ワーナーさんという、世界のPHCにとっての紛れもない大恩人・先達を日本にお迎えして、21世紀の「保健と人権」についての意義深い講演会やワークショップを各地で開くことができました。その機会に、彼から、日本の社会や医療についてまで、深い洞察に満ちた指摘と報告をいただいて、私たちが、みずからの置かれた社会の現状をよく知り、未来にわたる展望や抱負をきちんと描くべきときではないかと、触発・激励されるように感じました。しかし、その負託に応えるには、自分の力がとても及ばないという思いもあり、なんとなく気後れしていたところがあったと思います。
 デビッドさんの主宰するNGO・ヘルスライツ(HealthWrights)の機関誌 ’Newsletter from Sierra Madre’ は昨2009年12月の第65号で、’Where There Is No Doctor in Japan’ という日本特集を発行しています。この特集記事はデビッドさん自身が筆を取ったもので、シェアが彼を招いて「保健と人権」、そして障害者運動や地域リハビリテーションに関する講演会を、他団体と協力しながら各地で開いたこと、また、なぜいま「医者のいないところで」の日本語訳出版が必要とされるに至ったかについて、高齢化と貧困・格差の進む日本の現状に照らして、世界100カ国以上に配信されているというこのニュースレターの広範な読者に報告し、丁寧で鋭い分析を加えています。この記事の中で彼が、私自身のことまで過大に評価してくださっていることに、ただただ、もったいないというか、面映い思いでいっぱいでしたが、とにかく、短期間の滞在中に、山谷訪問などを通じて、日本社会の抱えている病理と現実に対して、共感的ではあるが、生物の先生らしい、客観的で鋭い眼差しを注いでいることに感嘆するのです。英語ですが、下記のアドレスから記事の本文をお読みいただければと思います。
 http://healthwrights.org/Newsletters/NL65.pdf

このニュースレターにも載っていますが、09年10月27日デビッドさんが、シェア事務局のスタッフ、青木美由紀さんと西山美希さんの案内で、浅草、墨田川沿い、そして山谷を経巡(へめぐ)ったとき、彼は隅田川河畔で、たまたま、車でパトロールする公園管理事務所の職員から追い立てを食らっているホームレス者に出会います。そのとき、この野宿の人の寄る辺ない姿に心から共感をもった彼が、描いてくれたのがここに掲げる絵です。この絵が象徴するのは、まさに、障害者運動などで問題視される「社会的排除」(Social Exclusion)そのもので、日本社会がこれにどう立ち向かい、解決しようとしているのか、彼は強い関心を寄せているのです。

デビッドさんの描く隅田川沿いの野宿者

2.四半世紀の間、山谷の野宿者医療を担ってきた山友会

 墨田川からほど近い、私が働く山谷地域では、いま高齢貧困単独生活者(その圧倒的多数が男性)の医療・福祉の問題が急速に深刻さを増しています。一方で、年末の「派遣村」に象徴されるような、より若い稼動層の失業・ホームレス問題も社会の耳目を集めており、この二つの問題には連続性と関連性があるとは言え、当事者のニーズの違いによって、それぞれ異なった解決へのアプローチが必要とされていると私は感じています。日本全体として見ると、超高齢社会がもたらす保健・医療・介護・福祉・居住の課題は、圧倒的なスケールで私たちの明日に迫ってきており、とくに私のような団塊世代が次々とリタイアしていく、2010年代中葉以降に備えて、どのような制度設計をし、財政的持続性を確保し、広義の「健康サービス産業」に関わる人的資源を養成・確保していくかについて、国民的合意形成と最良の政治的リーダーシップが求められています。
 山谷地域は、かつて土木・建設業関連の日雇い労働者が元気に働く街で、昭和30-40年代の高度成長期の日本を底辺で支え、東京オリンピック、東海道新幹線、新宿副都心、高速道路網などのインフラ作りに献身してきた人々が、最盛時1万5千人以上、300軒あまりのドヤ(「やど」の逆称、簡易旅館のこと)に暮らしていました。岡林信康の「山谷ブルース」の歌詞は、その時代の彼らの矜持(きょうじ)と屈折した思いをよく伝えています。

人は山谷を悪く言う
だけどおれ達いなくなりゃ
ビルも ビルも道路も出来やしねえ
誰も分かっちゃくれねえか

だけどおれ達や泣かないぜ
働くおれ達の世の中が
きっときっと来るさそのうちに
その日は泣こうぜうれし泣き

いまや山谷(泪橋交差点を中心に、台東区清川、日本堤、荒川区南千住を含む、半径500mほどの地域の通称)のドヤの数も150軒を切るくらいに減り、そこに居住する方々の数も5000人弱になったと言われています。その彼らもいまや年老い、65歳以上の方が宿泊者の半分以上を占め、生活保護の受給者が6割を越えるとされ、都会型の「限界集落」状況となってきています。問題は、ドヤの住人の高齢化に伴い、さまざまな疾病をもち、認知症や障害も抱え、医療や介護を必要とする人が非常に多くなってきていることです。さらに事態を複雑にしてきたのは、山谷や隅田川沿いには、他地域でぎりぎりまで食い詰めたホームレスの人々が新たに集まったり、いわゆる「区外保護」で、住民票は他の行政地区に残したまま生活保護を受け、ここでドヤやアパート暮らしをしている人が多くいたりで、正確な人口動態や生活保護者・障害者の割合などの捕捉がむずかしいことです。
 さて1984年、シェア自身が創立間もないころ、山谷では画期的なNPOのスタートがありました。山友会です。一昨年(2008)10月にシェア誕生の四半世紀を記念して刊行した「すべてのいのちの輝きのために-保健NGOの25年」(めこん)にも詳しく書きましたが、シェアの何人かの看護師・医師は、1985年のエチオピアでの緊急医療救援活動に参加するすこし前から、山友会の無料診療所活動のお手伝いに行かせてもらうようになります。それから25年経って、保健所に正式に届出をして開業認可を受けた医療機関としては、たぶん日本で唯一、完全無料診療所(健康保険証を一切扱わず、すべての診療行為を無償で行う)として活動し続ける山友クリニックは、これまで10万人を超えるホームレス者やドヤの住民らに医療を提供し、生活困窮かつ無保険の重い病人のために積極的なケースワークを行い、食料や衣類の配布をするといった地道な活動を続け、今年2010年にはシェアと同様に、東京都弁護士会人権賞を授与されています。ちなみに、シェアの理事で在日外国人健診活動の責任者でもある大脇甲哉さんは、山友会の理事長を務め、毎週金曜日には診療にも当たっています。
 下に掲げるのは、山友クリニックの最近1年間の疾病統計です。のべ患者数ですので、高血圧のように1-2週間ごとに受診される患者さんの数はどうしても多くなりますが、劣悪な居住環境、過度な肉体酷使、不規則・不十分な食生活、アルコール過飲、着替えや入浴面で清潔を保つのが難しい日常が、循環器、消化器、運動器、皮膚、精神などの病気を多くしていることは、新宿連絡会の調査結果と共通する面を示しています。

表1. 山友クリニック 1年間の疾病統計

山友会では、基本的な薬剤はジェネリックのものを中心に一通り揃えており、10人ほどの医師と鍼灸師らが、交代で、月曜から土曜日まで毎日診療に当たっています。看護は、メリノール会のシスター、リタ・ボルジー(Rita Burdzy)さんが婦長格で活躍され、プライマリ・ヘルス・ケア研究所付属あやめ診療所(伊藤憲祐院長)の越藤加奈子さん(看護師兼針灸師)や探検家・関野吉晴氏の連れ合い関野玲子さん(鍼灸師)などが日替わりでボランティアをしてくれています。
シェア発足間もないころ、機関誌ボン・パルタージュに「リタの思い」(Rita’s Reflections)と題する次の文章を寄せてくださったシスター・リタは、「すべての人間にとってコミュニティはひとつ」という力強いヴィジョンを示すことで、シェアの目指すべき価値観まで与えてくれたと言えます。
「山谷の貧しき人々は、私の彼らへの、そして私たちの世界への責任と向き合うよう呼びかける。その訴えの声は日々強さをましている。私自身がその訴え応えようと精一杯努力する中で、私たちは、『すべての人間に唯一つあるコミュニティ』として、一緒に働こうではないか。たとえ私たち自身の安全を犠牲にしてでも、この世界をもっとましな場所-そこで人生の苦く甘い(bitter-sweet)現実と出会える場所-へと変えられるように」(Sister Rita Brudzy :‘Rita’s Reflections’ Bon Partage 1985年12号)

食料配給に並ぶ野宿の人々の列 (写真提供:山友会)

山友会の活動が目指してきたことは、路上生活や日雇い労働者への社会的排除をなくし、すべての人のいのちと健康が尊重されるように、医療・社会サービスへの彼らのアクセスをすこしでも改善し、公平・平等なものにしていこうとする働きだったと言えます。その意味で、港町診療所が中心になって1991年に始めた外国人患者に対する健康保険制度MF-MASH(みなとまち健康互助会)と同様に、日本における草の根レベルのPHC活動の一つのすぐれたモデルになってきたと思えるのです。

3.日本の病院医療の姿 -なぜ医療荒廃と「社会的退院」の大波が起きたか?

 さて、戦後の日本では長きにわたって、歳老いて身寄りが少なく、経済的にも恵まれない方々の「終の棲家」(ついのすみか)として、全国に何十万床もあった、いわゆる「老人病院」が、高齢者福祉政策の「ハコモノ」機能を代行させられてきました。1ベッドあたりの床面積が狭く、看護師や介護スタッフの配置も少ない、きわめて劣悪なアメニティとケアのもとで、これらのお年寄りは、晩年の長い年月を、淋(さび)しい病院暮らしで締め括ることを強いられてきたのです。それでも日本経済が右肩上がりで成長を続けた昭和30-50年代は、こうしたやり方も、病院収入が担保されている限り、医療サービスの供給サイドとしての医師会や病院側に文句はなく、パターナリズムとモラルハザードの許容される日本の医療風土の中で、「福祉・介護施設でもある老人病院」という存在形態が、一種の国民的合意として、受け入れられてきました。
ところが、医療保険制度の財政基盤が危機に瀕し、介護保険制度が始まり、高齢者の在宅介護が基本的な流れになっていく2000年ころから、老人病院を含む全国の病院の解体と、地域医療・救急医療体制の急速な崩壊とが、ほとんど手を取り合うように進んでいきます。そこには、世界でも類を見ない少子高齢化という日本の人口構造の急激な変化や、世界経済の悪化など、厚生労働省(2001年に厚生省と労働省が統合して誕生)だけに責めを負わせることのできない、巨大な背景原因もありました。いずれにしても、この官庁が医療「供給」体制と財源問題の抜本的な「改革」を目指していたのは紛れもない事実で、2000年の介護保険制度の発足に伴って明らかにされた方向は、医療保険制度を財政的に維持するため、1)医療と高齢者介護を分離し、後者は介護保険制度のもとに置く。2)病院の機能分化を進め、急性期の病院(床)と、慢性期の患者のケアを行う療養病院(床)とを峻別し、前者におけるベッド数を大幅に削減していく。3)2006年の小泉行政改革では、さらに、38万床あった療養型病床そのものに大鉈(おおなた)を振るう方針が出されました。
 急性期病床(一般病床)削減については、2006年春の診療報酬改訂以来、下の表に示すように、平均在院日数と看護師配置の2つの基準によって入院基本料の差別化がなされ、急性期病院のランク付けが厳しく行われていきます。実際区分C以下になると、病院経営は極めて厳しい状況に追い詰められます。同一の病気で入院した患者さんが、従来、退院までに平均30日かかっていたのが、半分の15日間で退院できれば、入院ベッドもまた半分あれば間に合うという計算になります。平均在院日数を短縮化させることは、必要ベッド数を減らし、総医療費の上昇を食い止めるために、医療行財政上重要な意味を帯びてくるわけです。


表2 看護配置区分-平均在院日数-入院基本料

  数年前東京など大都市圏の大学病院や有名病院が、区分A「7:1」看護基準を取るために、それこそなりふり構わず、全国で看護師さん集めに奔走し顰蹙(ひんしゅく)を買ったのも、高い看護基準を取って入院料収入を上げ、経営を安定化させるという至上命題に動かされたためと言えます。一方では、このことが地方や都会でも中小病院の医療を、人材確保の面で疲弊・荒廃させる一因となったことも否定できないでしょう。
人口当たりの急性期病床数を半減させ欧米なみに近づけることは、厚生省時代以来の歴代政権の宿願でした。それを実現するために、さきほどの看護配置による入院基本料の差別化に加えて、強力な武器となったのが、「診断群分類包括評価」と日本語で呼ばれる「DPC」(Diagnosis Procedure Combination)でした。これは、病院で入院治療の対象となる疾患を1500余の診断群に分類し、それぞれの病気について、標準的な必要入院日数と定額の医療費をあらかじめ決めておくものです。ぶちあけて言ってしまえば、定められた日数以内に入院での診断治療行為を完了させ、患者さんを治癒または軽快退院させることができれば、定額の入院費用のうち使わないで済んだ医療費の差額分は病院の「丸もうけ」になるという仕組みで、病院に対して早期退院への強いインセンティブ(つまりアメとムチ)が働くことになります。2003年に全国の82の特定機能病院で試験的に始まったDPCは年々一般の病院に広がっていき、2009年末までには、DPC対象病院は全国で1284病院、一般病床(約91万床)のおよそ半分に及ぶと言われています(ウィキペディアによる)。つまり、DPCはいまや日本の急性期医療のスタンダードであり、これを導入できなければ「生き残り」は不可能とされています。この楽隊車(Bandwagon)に乗り遅れないことが、いま全国の多くの病院にとって喫緊(きっきん)の課題となったわけです。

 一方、慢性期の高齢者入院医療については、介護保険でまかなう介護療養病床と、医療保険でまかなう医療療養病床とが合わせて38万床、2005年時点であったとされますが、2006年の小泉行政改革の中で、大幅な削減の方向が明らかとなります。

図2 療養病床削減計画(厚生労働省 2006年)

2008~2012年の4年間で介護保険療養病床をゼロにし、全体で23万床も減らすという、これほどドラスティック(思い切った)な削減の実施を目指すとして、療養病床から退院させられる患者さんたちの受け皿・行き先をどうするかについて、当時厚労省の中で明確なヴィジョンや政策があったようには見えません。そもそも、この計画が打ち出される前に、厚労省の中で、介護保険制度(つまり介護療養病床)に責任を負う老健局と、医療保険制度(つまり医療療養病床)を担当する保険局の間で、綿密な意見のすり合わせや調整が図られていなかったことは、後の朝日新聞などによる調査報道でも明らかになっています。好意的に言っても、官僚組織の縦割り構造の陥穽(かんせい)が露呈したわけです。 
どの療養病床患者を「社会的入院」患者と認定して病院から出すかについての明確な基準として、厚労省が援用したのは、医療療養病床における「医療区分」という考え方でした。医療区分1と、区分2や3の間に大きな入院基本料の差を設け、実際区分1ではホテルコストも回収できず、完全に採算割れとなり、病院経営が成り立たないように政策誘導していきます。

表3 医療療養病床における医療区分

しかし、区分1とされた患者さんの中にも、重い脳卒中後遺症や進行がんの患者さんなどがいらして、その方々にかかる医療や看護や介護サービスの必要量、従って入院コストが、決して区分3の人に比べて、軽いものではないということは、医療現場で日々働く私たちの実感としてもありますし、なにより厚労省自体の調査でも、証明されていたと言います。(日本経済新聞2009年10月27日記事「疲弊する地域医療?」)

表4 医療療養病床における入院基本料の格差

このように、日本の病院は、急性期医療、慢性期・療養型医療の両面で、万力の締め付けにあうような試練に、21世紀に入ってからこの方、ずっと遭い続けてきました。そのことが、救急医療現場はもちろん、地方をはじめ各地での地域医療の崩壊、医療従事者の疲弊、「集団での職場からの立ち去り型撤退」といった悲劇を招来した、一因として浮かび上がってきます。

 2008年には後期高齢者医療制度の法案成立をめぐって、大きな国民的議論が起き、ときの自民党政府は厳しい批判にさらされます。これもまた、民主党政権誕生へのきっかけとなった事件として記憶に新しいことです。療養病床削減も後期高齢者医療制度も、一体的な高齢者医療・介護制度づくりの中で生まれてきた方針ですので、それを改めるとすれば、現在政府や国会の場で検討されている抜本的な改革への議論が、真に国民の長期的な利益につながるものとなるよう、成果を注視していかねばなりません。私たちは市民として、また、納税者として、これらの政策決定プロセスに、それこそ、”Nothing About Us Without Us”(私たちに関わることを、私たちの知らないところで決めないで)という、「当事者主権」の考え方をきちんと押し出して、為政者にモノを言っていくべきでしょう。

4. 日本型プライマリ・ヘルス・ケアと若月俊一先生 - 老人保健法をめぐって

さて、ここで皆さんに読み比べていただきたい2つの法律の条文があります。
 ひとつは昭和57年(1982)に制定された「老人保健法」の、二つ目は、「高齢者の医療の確保に関する法律」(平成21年7月改正)の、それぞれ「目的条項」です。後者は、「老人保健法」の改正法・後継法と位置づけることができます。

老人保健法(昭和57年8月)
第一章 総則
(目的) 
第一条
この法律は、国民の老後における健康の保持と適切な医療の確保を図るため、疾病の予防、治療、機能訓練等の保健事業を総合的に実施し、もって国民保健の向上及び老人福祉の増進を図ることを目的とする。


高齢者の医療の確保に関する法律(平成21年7月改正)
第一章 総則
 (目的)
第一条
この法律は、国民の高齢期における適切な医療の確保を図るため、医療費の適正化を推進するための計画の作成及び保険者による健康診査等の実施に関する措置を講ずるとともに、高齢者の医療について、国民の共同連帯の理念等に基づき、前期高齢者に係る保険者間の費用負担の調整、後期高齢者に対する適切な医療の給付等を行うために必要な制度を設け、もつて国民保健の向上及び高齢者の福祉の増進を図ることを目的とする。

この2つの条文を比べてみると、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)の精神に照らして、いかに前者が平易明快で、普遍性や公平性の高いゴールを目指したものだったかが分かります。逆に後期高齢者医療制度は、医療費の適正化や費用負担、前期と後期の高齢者の差別化にまで言及し、政府の姿勢自体が非常に腰の引けた、ある意味で責任を回避する文章のようにも読めてしまいます。PHCの視点からは、志の衰えた法律となってしまったのです。
実は、昭和57年公布の老人保健法は、56年当時の厚生大臣・村山達雄氏が佐久を訪れ、若月俊一先生から八千穂村全村健康管理運動のすばらしい成果をつぶさに聴取し、現場を踏査した上で、八千穂モデルをもとに予防や健診事業も盛り込んで法案提出を行ったことが、若月先生自身の証言によっても知られています。その意味で、佐久で行われてきた、草の根保健活動の成果がこの法律に反映され、PHC的な精神が横溢していたことはよく理解できることです。老人保健法はその意味で、まさに、佐久に発祥する日本型PHCの経験と成果を汲むものだったことになります。
 ちなみに、村山大臣自身の、第95回国会・参議院社会労働委員会(昭和56年11月24日)での老人保健法法案提出理由と趣旨説明の記録が残されていて、下記のリンクから閲読することができます。短い答弁ですが、彼の篤実な性格と高潔な志を読み取ることができるように思います。

→→ 老人保健法法案提出理由と趣旨説明の記録

 いずれにしても、佐久病院が先駆者として切り開いてきたような、戦後の地域医療、予防・健康増進活動は、1978年のPHCに関するアルマ・アタ宣言に先立つこと30年にも及ぶもので、それ自体世界に誇れるほど輝かしい達成であったと言えます。
 近年にいたるまで、長野県は、国民医療費や健康指標の面で、比較的低いコストで、全国の都道府県でも有数の達成を遂げてきた県として知られています。(平成17年度で、男性の平均寿命全国1位、女性全国5位、老人医療費全国最低) その背景には、佐久病院をはじめとする農協母体の病院や、諏訪中央病院などの国保診療施設が地道に進めてきた、在宅医療への取り組み、予防と早期発見・早期治療の保健活動が、脳卒中やがんといった重い病気を防ぎ、入院医療費を下げ、長寿をもたらす上で与(あず)かって力あったと言われています。
 以下の若月さん(敬愛をこめてこう呼ばせていただきますが)の言葉は、彼の根本的な思想をよく物語っているように思います。
「村の中に入っていって、潜在している病気を早期に発見し、早期に治療するという努力もしなければならない。さらに一歩を進めて、病気にならないための予防の運動はもっと重要で、日本の現実の中から生活と環境と労働-病気の原因となるそういう条件を、よく保健技術者の立場から解明して、それを農民に知らせることが必要だ。そして、そのような病気にならないようにすることが、人間の権利であるということを農民に自覚させることはもっとも根本的なことではないかと思ったのです。この自覚がないとほんとうの健康は守れない。従来のような健康犠牲の生き方ではだめで、自分たちの力で、健康を獲得する方向に、農民を啓蒙することが、私たちの基本的任務じゃないかというふうに考えてきました。」(若月俊一・川上武対談「農村医学の建設」 昭和46年)

 若月さんが保健教育者として、若い医師や看護師に説き続けてやまなかったことの一つに、「君たちの知識や技術は、本来社会化されたもの、つまり人びとの共有の財産であり、君たちが個人的に所有しているものと考えてもらっては困るのだ」、という考え方があります。
 これは、デビッドさんが「医者のいないところで」の冒頭の章「保健ワーカーへの言葉」で繰り返し述べている、人々との知識の共有、学びあいの大切さという考え方につながるものです。
 昨年デビッドさんが来日され、10月29日に信州を訪れ佐久病院で講演会を開いていただいた機会に、彼は若月先生の墓参にも同行されました。デビッドさんは、若月先生の名著「村で病気とたたかう」の英訳にも目を通されていて、この先達を深く尊敬していました。メキシコでの豊かな経験に基づく彼の講演を聞いて、多くの聴衆が、お二人の間に流れるPHCの開拓者としての共通のスピリットに打たれ、感銘を深くしている様子でした。
 いま若月さんの文章を読み返してみると、古い言い回しの中にとても斬新なアイディアが詰まっていることを感じます。
 「いつでも、どこでも、だれでも(必要な医療にかかれるようにしていく)-医療のデモクラチゼーション(民主化)を進めて行くというのはそういうことなんですよ。」
「すべての保健活動家(Health Worker)は、地域住民に対して、特にその個人に対して、よき教師ないし啓蒙家(Illustrator)であらねばならない。」(「ヘルス・ワーカーは啓蒙家でなければならない」(佐久病院健康管理センターだより 第16号 昭和55年3月1日)
最近は、啓蒙という言い方は、「蒙」という字の意味が誤解を招くこともあり、あまり使われなくなっていますが、イラストレーター(illustrator)が「啓蒙家」とも訳し得るとなると、啓蒙家・啓発家の役割が新しい光のもとで見えてくるように思います。英語のillustrateには、「根本から明らかにする」といった意味もあるようで、デビッドさんが長年にわたり創意工夫してきたような、図や絵を使っての説明は、まさにイラストレーターの仕事であるとともに、物事を本質的に理解させる教育者の使命を表すことにもなるのでしょう。

5.「地域ケア連携」という新しいネットワークのかたち
― 地域医療機関「間」連携から地域ケア連携へ

国立社会保障・人口問題研究所が2008年に公表した日本の世帯数の将来推計調査によると、2005年時点で75歳以上の後期高齢者1164万人が、2025年には2167万人と倍近くに達し、しかもこの年齢層での単身者世帯は、同期間に197万世帯から402万世帯と2倍以上に増加すると推計されています。また同じ研究所のデータによると、2008年段階で、1年に114万人の日本人が亡くなり、その約85%が病院または老人施設で最後を迎えています。2020年代には、毎年150万超の日本人が死ぬという本格的な「多死時代」が到来します。未来の時点で仮にいまの医療制度が維持できているとしても、これだけ夥(おびただ)しい数の死者の、9割近くを、病院・施設で最期まで看取っていくことは不可能となるでしょう。現在の、年金制度や医療制度の構造的な危機の中で、膨大な数の高齢者が「おひとりさまの老後」(上野千鶴子)と死を迎えるという、いわば忍び寄る巨大な現実に、国民全体が冷静かつ計画的に備えていく必要があるわけです。その意味で、いま山谷のドヤ街や路上で起きているような、都市型限界集落の貧困と病の問題は、まったく他人事でなく、私たち一人ひとりにとっての切実な問題であり、共感的な認識と取り組みが求められているのです。
 山谷では、上述の山友会に限らず、友愛会、ふるさとの会、訪問看護ステーションコスモス、「きぼうのいえ」のように、医療・看護・介護・居住・就労支援に関わる、いくつものすぐれたNPOが80-90年代から2000年初頭にかけて次々と立ち上がり、地道に活動を続けてきました。私自身、アフガニスタンでのJICA主催の医療倫理ワークショップから帰国後、コスモスの山下真実子所長の熱心なお誘いもあり、2008年1月より、山谷地域を診療圏とする、哺育会・浅草病院に常勤医として入職し、お世話になっています。
 浅草病院を拠点に、日々山谷と向き合って外来・病棟での診療活動を行い、ドヤへの往診をコスモスと連携して積極的に続けていく中で、今日の生活困窮者の医療が、山谷地域に限られた特殊例外的なものでなく、きわめてありふれた、しかも今後ますます広がりと深刻さを増していく課題であることが分かってきました。

 第3章で述べたような、国の療養病床の削減方針の流れの中で、多くの病院が既存の療養病床を、老人保健施設や回復期リハビリテーション病棟に転換する動きを見せています。実際、浅草病院でも、一昨年49床の医療療養病床をすべて、回復期リハビリテーション病床に変えました。そこで新しい課題となったのは、地域でひとり暮らしを続けられなくなってきた、高齢要介護・認知症などの患者さんの落ち着き先をどうするかということでした。高齢者が、徐々に悪化する慢性疾患や認知症のため、家族の支えがあってもなくても、そのまま家で自身の生をまっとうするのが難しくなってくる時がいずれは訪れます。この「家」は、単身者世帯、つまりドヤやアパートの2-3畳間の場合も大いにありえます。この人たちに、介護保険を使ったサービスを導入して、なんとか今まで通りの在宅生活を続けられるように支援していこうにも、要介護認定の結果が出て、具体的なサービスが開始できるまでに、最短でも1ヶ月以上はかかります。従来のように、比較的重い疾病や障害をもった高齢患者の場合、要介護度が決定するまでの間、療養病床で入院ケアをしながら、調整するといった時間的余裕はなくなりました。そうこうしているうちに、ドヤなどから追い出されて行き場がなくなり、路上死に至ってしまう方、認知症があるため精神病院に送られて、一生「ブラックボックス」(新宿連絡会・稲葉剛さんの表現)に入ったまま亡くなってしまう方、また2009年3月に群馬県の施設「たまゆら」で起きた火災で犠牲になった、10名の都内からの生活保護受給のご老人たちなどは、こうした背景の中から生まれてきた犠牲者と言うこともできます。

図3 高齢者ハウジングプアのブラックボックスへの誘導 (稲葉剛作成:NHK社会福祉セミナー2009年8-11月号 特集「高齢者の終の棲家はどこに」)

 2008年に山谷地域のさまざまなNPO(看護・介護・居住・就労支援などのサービスに関わる)や医療機関、地域包括支援センター、福祉事務所、研究機関などの関係者が参加して始まった(オブザーバーを含めてですが)、「地域ケア連携をすすめる会」は、以下のような目的を規約の中に掲げています。
「本会は、台東区・墨田区・荒川区を中心に、路上生活者・生活保護受給者など生活が困難な状況にある人々に対し、居住支援と社会サービスの事業者が連携し、安定した住居と生活、及びより善い医療・保健・福祉サービスを提供するネットワークの形成を目的とする。」
 この会の参加者は、日々、こうした「介護難民」、「医療難民」、「ハウジングプア」と言えるような高齢者の窮境に直面し、ともに悩み、なんとか地域で互いに連携しつつ、取り組み、解決を図っていくことができないかという、問題意識を共有してきたのです。
 従来、「地域医療連携」という言葉が、日本の医療界では長く、ほとんど手垢の付いた表現として使われてきました。多くの場合、病院から次の病院へ、いかに患者さんを誘導し渡していくかということの、一種の婉曲表現として使われてきたと言えます。もちろん、医療機関連携の中には、一般の病院で発見されたむずかしい病気を専門病院や高度先進医療を担う大学病院などに紹介・リファーして、最良・最高の治療をしてもらうという、積極的な意味の「連携」もあります。ただ、慢性疾患をもった高齢患者さんの場合は、在院期間の調整のために、それぞれの病院の都合で、患者さんが「たらいまわし」されるケースがあまりにも多かったと言えます。たとえば、私が担当していたある60代の脳梗塞患者さんの場合、浅草病院に来られるまでの1年あまりで10数回入院先を変えさせられるという、たいへんな目にあってきました。それぞれの病院は彼に対して、まったく悪意なく振舞っていたのでしょうが、この患者さんの立場からすると、モノをやりとりするように扱われてきたのと同じです。最終的に彼は、「ふるさとの会」が墨田区にもつ自立援助ホームという名のケア付き宿泊所に落ち着かれ、往診医や訪問看護師のサポートを受けながら、現在も安定した療養生活を継続できています。
 「地域ケア連携の会」が模索しているような<連携>では、PHCの原則、つまり、「患者さんやクライエントのニーズに基づく」、「地域住民の参加」、「地域のさまざまな社会資源の有効活用および相互協調」、「適正技術の使用」、「自己決定」などが、できるだけ生かされ、尊重されるように活動することを目指しています。
 ドヤやアパートや宿泊所、といった地域にある既存の「ハコモノ」を上手に使って、そこに、福祉、医療、看護、介護、ケースワーク(ケアマネジメント)、リハビリなどの社会資源が上手に組み合わされ、導入され、協力し合いながら、患者さんやクライエント中心に地域ケアを持続可能な形で展開していく。ここで、「持続可能」というのは、その人が望む限り、病状や障害が重くなっても、その地域に住み、生き続けられるという意味です。そこに、21世紀日本の新しい地域連携の姿が浮かび上がってくるように見えます。
 ふるさとの会が山谷のど真ん中、台東区清川2丁目で運営する、自立援助ホーム「ふるさとホテル三晃」には、さまざまな要介護患者、障害者が生活をともにしています。スタッフを含め、最善の意味で「擬似的なファミリー」というべきものを形成していると言えますが、これだけ多様なケアを必要とする人びとがいっしょに暮らしていけるのは、外部からの社会資源の導入を含め、<連携>の形がしっかりしているためであると同時に、田辺登さんという「ふるさとの会」のスタッフで「三晃」の前管理人がいみじくも語っているように、病院などではすぐに「問題化」してしまう認知症患者さんの周辺症状を、ご本人の身に危険が及ばない限り、受け入れたり、同調したりという形で全体の風景の中に溶け込ませてしまう、独特の包容力が光っているのです。ちなみに、田辺さん自身はもと青年海外協力隊の隊員で、彼の中には、異文化体験を通して、自らの価値観を他者に押し付けない精神的な柔軟性が、最良の形で培われ、日本の高齢者ケアの現場で生かされているのだということを、私は心強く感じています。

表5 自立援助ホーム・ふるさとホテル三晃の利用者像

安定したハウジングを高齢者や貧困者に保障・提供することと、良好で継続性のあるケアとの不可分性については、大井広典さんが、公共的な住宅政策の充実と一体化させることの重要性を説き、近作の「コミュニティを問いなおす - つながり・都市・日本社会の未来」(ちくま新書)で「持続可能な福祉都市」という概念を提唱しており、うなずけることです。私たちが山谷地域で診療してきた路上の患者さんで、重い糖尿病や心臓疾患などをもち長期ケアが必要な方も、病院を退院後、住所不定であるというだけの理由で、アパートやドヤでの居宅保護を受けられず、しばしば「寮」と呼ばれる、緊急一次保護センターや自立支援センターに退院後送られています。残念ながら、それらのケースはたいてい継続性のある治療・ケアに結びつかず、路上に戻ったまま、亡くなられてしまったり、病状の再悪化のため、またまた救急車で搬送されてくるなど、同じことの繰り返しになっています。ある意味では社会資源の無駄遣いですし、患者さんにとっても苦痛の多いことです。なぜ「寮」にいられなくなるかというと、狭い部屋に何人といったプライバシーの欠如とアメニティの悪さ、通院先の病院から遠くて通いきれないこと、規則が非常に厳しくちょっとした失敗(帰寮時間に遅れたなど)でも退所処分になってしまうこと、寮の先輩仲間などによるいじめ、ご本人自身がさびしさからアルコールに負けてしまうこと、などさまざまな原因があるようです。いずれにしても、今の福祉行政の中では、重い病気をもった生活困窮者(とくにホームレス)に対するハウジングの面での選択肢が余りに貧しすぎて、ご本人にとっても、生活保護財政にとっても期待を裏切る結果を生んでいるように思えます。
 こうした現状をすこしでも改善するために、新宿連絡会の金沢さだこさんは、「麦の家」という一種のステップアップハウスを運営し、ホームレスの方が、まず路上から抜け出し、アパートなどでの安定した生活に入れるまでの移行期間を支える仕組みを模索しており、まだ少数例ながら、注目すべき成果をあげています。これは、ハウジング・ファースト・アプローチとも呼ばれ、路上生活者の抱える問題を恒久的に解決していく上で、欠かせない考え方になってきているようです。
 こうした、人権、プライマリ・ヘルス・ケア、基本的人間ニーズ(BHNs)に配慮した、高齢者・障害者・失業者などへの地域ケアのアプローチが、日本の国におけるスタンダードとなっていくように、すこしずつ努力を重ね、仲間づくりや支援・共感の輪を広げていきたいというのが私たちの願いです。

6.さかさま医療ケアの法則

 私がこれまでもあちこちで書き、話してきたことですが、「さかさま医療ケアの法則」(The Inverse Care Law)という言葉を、イギリスの臨床医ジュリアン・チューダー・ハート( Julian Tudor Hart)が、世界的に有名な医学雑誌Lancetに寄せた論文で唱えたのは1971年のことでした。

「よい医療ケアの確保は、そのサービスが提供される人びとの医療ニーズが高いほど、反対に困難になる傾向がある。このさかさま医療ケアの法則は、医療ケアが市場の圧力に一番さらされているところで、より完璧に貫かれる。逆にそのような力の比較的少ないところでは、この法則はそれほどには貫徹されない。市場による医療ケアの分配は、野蛮で、歴史的にも時代遅れの社会的様式であり、それに戻ろうとするどんな試みも、医療資源の不均衡配分をいっそう悪化させることになる。」
 「いかなる市場経済も、企業投資を、一番もうかるところから、一番必要とされるところに移すということは決してやらない。」
 “The availability of good medical care tends to vary inversely with the need for the population served. This inverse care law operates more completely where medical care is most exposed to market forces, and less so where such exposure is reduced. The market distribution of medical care is a primitive and historically outdated social form, and any return to it would further exaggerate the mal-distribution of medical resources.”
 “No market will ever shift corporate investment from where it is most profitable to where it is most needed.”

 この文章は一見分かりづらいようですが、要するに、ホームレスや難民や生活困窮者、無保険者、高齢者、障害者、エイズ患者などの人々は、病気に罹りやすい不利な身体的・社会的条件をもちながら、いざ病気になると、必要となる医療サービスからもっとも遠ざけられ、不利な立場に追い込まれやすいというものです。ハート医師は、炭鉱などで多くの貧困層の患者さんたちを診療する体験を通して、こうした気づきを得たのです。1948年英国のNHS(国民医療制度:National Health Service)が発足した後、若い医師となった彼は、市場メカニズムによってではなく、人々の保健ニーズによって、医療サービスを、負担能力を問わずに保証していくシステムを作るべきだと、粘り強く主張してきました。そして、医療サービスは、他の商品と違い、こうしたシステムの下でも、消費者による濫用を招くことなく維持できると論陣を張りました。彼は地道な実践を通し、NHSの理論的支柱として、またその熱烈な擁護者として一貫して働いてきたのです。
「さかさま医療ケアの法則」はその後、徐々に賛同者を、NHS、医療界、行政において、また一般市民の間でも増やし、現在では、英国系の医学書や雑誌ではひとつのコンセンサス(合意)として引用されるに至っています。私がよく参照する、「Oxford Handbook of Clinical Medicine(7th Edition)」でも、冒頭の”Thinking about Medicine”(医療について考える)の章に、「ヒポクラテスの誓い」や「21世紀版ヒポクラテスの誓い」と並んで「さかさま医療ケアの法則」が掲げられています。
 こうした、すぐれた医療倫理的な考え方や価値観を、日本の国でも普及させていくことは可能だし、憲法25条の規定を持つ「国柄」にはいっそう相応しいものだと思えるのです。

図4 デビッド・ワーナー「医者のいないところで」と「弱さから力が生まれる」の色紙、 そして耳をつなぐシェーちゃん、アーちゃん

7.終わりに:名著「医者のいないところで」と「弱さから力が生まれる」の信念

 さて、この文章もそろそろ締めくくるべきところに来ました。昨年、シェアはデビッド・ワーナーさんの卓越した仕事の一つ「医者のいないところで」”Where There Is No Doctor”を、さまざまな方々のご厚意・協力を得て、日本語に監訳・出版することができました。この本が教えてくれる、プライマリ・ヘルス・ケアの真髄と具体的で平易な内容は、現在また今後の日本社会にとって大きな示唆と勇気を与えてくれるものと、私たちは信じています。
 デビッドさんは離日直前にシェアのためにすばらしい色紙を残していってくれました。そこには、ポニョのような二匹のかわいい動物が巴(ともえ)の形に描かれていて、彼によると、東洋の陰陽思想を表す絵だということです。その意味するところは、「弱さ」の象徴と思われがちな障害や病気が、逆にその人の中で気づきや他者への共感や向上への志を育て、いつか「強い」と思われていた人以上にすぐれた仕事を達成させてしまうことがあるというのです。ウサギとカメの喩えに通じ、陰陽のパラダイムシフトとでも言うべきこの考え方を、デビッドさんは、メキシコのシェラマドレ山脈の農村に住む障害者の仲間から学んだのでした。
 このすばらしいメッセージを、私の拙(つたな)く、長たらしい文章の結びに置かせていただくとともに、ここまで辛抱強くお付き合いくださった読者の皆さんに心から感謝申し上げます。

 (2010.2.18)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?