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Dr.本田徹のひとりごと(35)no.3_2011.4.12

気仙沼からの報告(3)

地域の人々の介護や生活を守る活動の先頭に立って - ケアマネジャー小松治さんの生き方

シェアが気仙沼でお世話になっている地元の方々のうち、行政や病院・診療所、訪問看護ステーションなどの関係者以外でとくに大切なパートナーとなっているのは、在宅介護やケアマネジメントの領域で働いている専門家たちです。小松治氏は、その中でも特に私たちがいろいろな意味で最も助けていただき、啓発され、感銘を受けた方です。小松さんは、精神保健福祉士、准看護士などの資格も持つケアマネジャー(介護支援専門員)で、気仙沼市の松川前にあるアサヤ介護センターの事業所責任者として働いています。

大島行きの船中にて、小松さん、コスモスの武笠看護師、越籐看護師
倒壊した、大島港周辺

 今回私たちシェアのチームが4月9日に大島を訪問した際、同じ事業所の大島駐在の中野さんへの慰問、大島にある訪問看護ステーションの大谷看護師さんへベッド用のマットレスを届ける目的も兼ねて、私たちシェアの4人組(関野医師、越藤看護師、武笠看護師、本田)を、小松さんは親切にご案内くださいました。大島訪問自体も非常に勉強になるものでしたが、島への往復の際の彼のお話は実に心に染み入るものでした。
3月11日の大津波で小松さんのご自宅は完全に流されてしまいました。みずからの命は助かったものの、一時は流された家にいたはずの中学生の一人息子の行方も分からなくなり、彼は大変心配しました。その後、妻、息子とは、市最大の避難所の一つとなった階上(はしかみ)中学校でようやく再会できました。しかし、奥様は看護師として、大変な状況に陥った勤務先の仕事に復帰しなければならず、後ろ髪を引かれながらも、お子さんを避難所に放っておかざるを得ない状況となってしまいました。小松さん自身もまた、看護師や精神保健福祉士としての資格や経験ゆえ、市から要請され、最初の数日間は、修羅場と化した保健室で、低体温症や肺炎などのため次々と患者さんが亡くなっていく状況のもとで、保健ワーカーとして奮闘し続けます。ほとんど不眠不休で働き、4日目にようやく徳州会のドクターカー(救急車)が、薬も満載して救援に駆けつけてれくれた由です。気がつくと、彼は4日間、被災時に着ていたネクタイ、背広姿のまま、まったくその格好に自身で気づくこともなく、横にもならず働き続けていたのでした。
最初の3日間は文字通り外界から遮断され、一切情報もない、電気も水道もない閉ざされた世界でした。「気仙沼や大島の大火は、繰り返しテレビで放映され、多くの人が衝撃を受けていました」と言うと、「そのころは、私たちよりも離れたところにいた皆さんのほうが、私たちの身に何が起きているかを、よっぽどよく知っていたのですよ」と小松さんは答えます。
ピーク時1300人もの人々が避難され、足の踏み場もないような混雑を極める中学校で、人が次々と亡くなられ、ご遺体を安置する場所さえないことは、どんなにたいへんなことだったでしょう。ご遺族が号泣されている中で、十分にお悔やみや慰めの言葉もかけてあげられないまま、同じ保健室内の次の重症患者さんのケアに必死で向かっていかねばならない気持ちは、本当につらく、くやしいものだったと、小松さんは述懐されていました。
 
実は、小松さんのお兄様にも予期せざる悲劇的な体験が、3月11日に待ち受けていたのです。お兄さんは、市内の錦町にある介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」で職員として働いていました。津波が来ることは分かり、2階へ、もともとお体の不自由な利用者の方々を助け上げようと全力を尽くしている最中に、大水は窓を破って怒涛のように侵入してきました。小松兄さんや他の職員がなんとかつかめる限りの人たちを抱きかかえ、波に持っていかれないように奮闘します。それでも、自分の手からすり抜けて波間に消えて行く人々を目にしなければなりませんでした。津波の合間になんとか屋上まで助けられる限りの人を運び、一夜そこで、皆が凍えながら、文字通り抱き合って寒さを凌ごうとしましたが、低体温症で朝までに亡くなるご老人も何人かいたと聞きます。そして、あたり一帯は重油引火による類焼で火の海となり、絶え間なく爆発音が聞こえ、「自分たちはこのままここで焼け死ぬのだ」と、恐怖の内に確信したそうです。結局、この「リバーサイド春圃」では、新聞報道によると、計54名の入所者の方が尊い命を落とされたと言います。
小松さんのお兄さんの消息も1週間ほど分からなかったそうです。しかし、お兄さんは救出後1日だけ休んで、すぐさま避難所に設けられた仮の老人保健施設に戻り、引き続き患者さん・入所者のケアを続けられたと聞きます。尋常でない、職業的なエトスをお持ちの方と言えます。後日、小松さんが、春圃の職員の人たちと再会すると、彼らは小松さんに抱き寄ってきて、「なんで助けられなかったんだろう」、と自分を責め、号泣されたそうです。ほんとうに胸に迫るお話でした。

 現在、小松さんは、私たちが属する「気仙沼巡回療養支援隊」のすぐれた助言者、調整者として、行政や保健所の保健師さんらとともに、地域保健・介護の再生を地元の視点でどう行っていくかについて、真剣に考え、模索しています。そこで彼が強調していると私に思えたのは、医療はもちろん大切だが、外部から医療支援をする際にも、それがあまり大きな幅を利かせてしまうと、住民のもともとの生活の視点が見失われてしまう。被災者の本来の生活を忘れずに、いかに地域を再興していくかが大事だろう、というものです。
 それとともに彼が長期的な視点から心を砕いているのは、現地の居宅介護支援事業者や介護施設、訪問看護ステーションなどの社会・保健資源が、持続可能性(Sustainability)を失わずに、この試練の時期を乗り越え、住民のために役立つ組織として、再生・繁栄していくことです。たとえば、仮に善意であっても、大量の福祉関連の支援物資を、無償で外から被災地域に入れてしまうと、いまでも苦境に直面している介護支援事業者の経営が一層圧迫され、結果的に、被災地の保健・介護・福祉ワーカーたちの生活が経済的にも成り立たなくなり、ひいては、地域の高齢者福祉や障害者福祉が後退してしまう危険性もあります。津波がきっかけで、職を失う民間の介護や福祉のワーカーが一人でもないようにしたいというのが彼の大きな願いでもあります。そうした観点は、私のような医療のことにしか通じていない者にとって、非常に洞察に富んだ、そして、人間的にもまたプロとしても、すぐれた生き方・考え方だと思えるのです。
小松さんに代表されるような、冷静沈着でありながら、熱い志を持ち、真に地域の将来を見据えた復興を目指していらっしゃる地元の方々と共に、シェアのような「よそ者」に、ささやかにでもどんな協力できるかを、しっかり考えていきたいとおもいます。

シェア代表理事 本田 徹
(2011.4.15 記)


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