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Dr.本田徹のひとりごと(37)2011.6.18

日本哲学会の場で聴く「持続可能性」の思想
- 原発事故と大震災の中で働く哲学者たちの危機意識


1.愛智(フィロソフィア)の場へのいざない

 日々、医療の仕事に追われている身には、哲学的な思惟というのは最も縁遠いものなのかもしれません。ほんとうはそうであってはならないのですが、ペーパーワークやパソコン・携帯端末のディスプレーに向かう時間があまりに増えた現代の医療現場では、機械的で反射的・反復的な作業に埋没する中で、医療者から人間性を失わせていく危険が潜んでいるようにも思います。そのことを反省的に意識する自分もまた、どこかに消し飛んでしまっていることを、稀に気づいて、ぞっとすることがあります。
 過去にもこのブログで、すぐれたキルト作家として紹介させていただいたことのある、岩渕扶美子さん(Dr.本田のひとりごと(19)「キルトに籠めた思い - カンボジアに運ばれる日本人の愛の手仕事 2007年5月10日」)から、ある日、日本哲学会発行の学術誌「哲学」の62号(2011年4月)と、5月14-15日に東京大学で開かれる日本哲学会の抄録が送られてきたのには、驚いたというか、「あなたはいつも忙しい振りをしているけれど、たまには、哲学者たちの真剣な思索の場に立ち会ってみてはどうですか?」と諭(さと)されているような、虚を突かれるところがありました。そこで思い出したように書棚から引っ張り出してきた、西田幾多郎の「善の研究」には、哲学的思惟について、こんな文章があります。
 「思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己(おのれ)自身にて発展するのである。我々がまったく自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。」
(第一編 第二章 思惟)
 たまには、こういう本物の思惟と思惟がぶつかり合い、「火の玉」を生む場に立ち合いたいと思い、5月の土曜日の午後、東大のキャンパスにのこのこと、私という門外漢は向かってみたのです。赤門を潜り抜け、会場の法文2号館入口に辿り着くと、能筆の岩渕さんが墨書された「日本哲学会」の美しい文字が掲げてありました。岩渕さんご自身も受け付けにいらして、フィロソフィア(愛智)の地に流れ着いてすっかりまごついている「唐変木」(とうへんぼく)の私を笑顔で迎えてくださり、安心しました。

みずから筆をおろされた「日本哲学会」の墨書と岩渕扶美子さん

2.「持続可能性の哲学」とは? 里山からのまなざし

 岩渕さんにお別れしてからのぞいてみた、最新のフランス哲学を論じ合う分科会は、聞いてもちんぷんかんぷんでしたが、その後に共同討議として開かれた「サステイナビリティの哲学」というセッションには非常に引き込まれました。ひとつには、「持続可能性」と普通訳されているサステイナビリティ(Sustainability)が、シェアのような開発協力に携わるNGOにとって重要な鍵概念であり、哲学者がいかにこの言葉を解釈し、使っているのか、とても気がかりだったということがあります。もう一つ、この共同討議に参加している哲学の徒たち皆さんが、東日本大震災と福島原発事故の直後に開かれる哲学会の主要な討議のテーマとしての、「社会の持続可能性」に、なみなみならぬ切実な関心を寄せていて、そのことが、会場の張りつめた空気に感じられたためでもありました。
 パネリストの一人である、龍谷大学の丸山徳次教授の発言にとくに私は共感を覚えました。丸山さんは、近年注目されている「里山学」の提唱者の一人で、人の手の入った「文化としての自然」とも言える里山がもたらしてきた生物多様性が、21世紀の地球環境保全に資することを信じて、里山学の理論化、哲学化に取り組んできました。丸山さんにとって、龍谷大学の瀬田キャンパスがある滋賀県大津市瀬田丘陵に残る里山こそ、学際的・集学的なフィールドワークを組織し、多くの市民を啓発し、里山にいざなっていく上での「学びと交流の場」となってきました。彼らの広範で豊かな仕事は、「里山学のまなざし」(昭和堂)にまとめられています。
 この本のいくつかの章を読んで私が感じたのは、私たち日本人の祖先が、長い歴史を通して里山的自然を形成してきた一方で、里山こそが逆に、自然といういのちと魂を持つ存在として、人間社会へまなざしを注ぎ返し、私たちが真に智慧ある存在として振舞っているのかを、見張っているという言い方もできるのだろう、ということでした。これはあたかも、あの「アイヌ神謡集」で知里幸恵さんが美しい日本語に移し替えて歌ってくれたように、ふくろうや鮭などの動物が、みずからのいのちや魂、文字通り全存在を犠牲にしてまで、アイヌ(人)に教え諭そうとしていたことにつながるものと思えたのです。あるいは、宮崎駿監督の「もののけ姫」にも通底する思想でしょう。

里山学のまなざし <森のある大学>から

3.世代内および世代間正義としての持続可能性

 丸山教授のお話でもうひとつ私が心惹かれたのは、持続可能性を世代内および世代間正義という文脈の中で捉え、考察していこうとする姿勢です。
 福島原発事故は、持続可能な社会という意味ではもっとも深刻な脅威と生みだし、この先何十年にわたり、その脅威は取り除かれない可能性があります。孫・子の世代を超えて、私たちの世代が生み出した放射能汚染問題が、日本列島に住み続けるであろう何百万・何千万もの人間に、大きな環境的負荷を強い、健康被害を与え続けることになった場合、そのこと自体、世代間の正義にもとり、持続可能社会を壊す要因となります。一方、このような原子力発電に伴う事故は、ある意味で、日本の中にある「南北問題」を照らし出す結果となりました。私たち都民の生活の利便と快適さのために東北地方の福島に建てられた原発が、安全神話を裏切って事故を起こし、福島県はもとより、そこを超えた多県にわたって環境的・農漁業的な被害を与えたという意味では、世代内の不正義をもたらしたということにもなります。これは、日本の安全保障政策の中で、常に沖縄が負わされてきた、過重で不正義な、米軍基地受け入れの負担という問題にも共通するものと言えます。同時代において、日本という「先進国」のある地域と別の地域の間に横たわる格差の問題には、資源や利便や安全を安価に提供する後背地対それらを受け取る首都圏いう、途上国と先進国の間にある、経済的な従属関係としての「南北問題」に重なるものがあります。とは言え、世代内不正義は、ある意味では、歴史的に形成されてきたものでもあります。植民地主義や帝国主義時代の「負の遺産」がそのまま解決されず、依存や格差の問題として持ち越されてきたという意味では、いまある世代内不正義は、過去の世代間不正義の変型(metamorphosis)として捉えることもできます。いずれにしても、私たちは、丸山先生が提唱するように、広い視野と歴史的展望に立って「社会の持続可能性」を考え、その実現・再生のために真剣に取り組んでいかねばならないのでしょう。現在、シェアが、訪問看護ステーションコスモスをはじめ、さまざまな組織・個人のご協力・支援をいただきながら、気仙沼の人々との真の信頼関係に立って、進めようと努力している地域の保健・介護・福祉・看護・医療の仕事は、その意味で、国際協力NGOとしてのこれまでの私たちの経験や蓄積の真価を問われる営みでもあるのです。そのことを真摯にかみしめつつ、息長くがんばっていきたいと、哲学者たちの真剣な討議に聴き入りながら、私は改めて強く思いました。

シェア代表理事  本田 徹

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