Dr.本田徹のひとりごと(34)2010.10.29
HIVの活動がつなぐ、ラオスとタイ2つの国の人びと
-シェア・タイが新たに進もうとしている道
去る7月、実に久しぶりに東北タイのウボン県へ出かける機会を与えられました。その後、例により多事に紛れ(沖縄平和賞受賞といった、望外のありがたいお知らせもいただきましたが)、この「ひとりごと」にタイでの見聞を取り上げようという願いはもちつつ、いつの間にか4ヶ月近い日々が経ってしまいました。従ってこのブログでホットな話題を提供できるわけではないのですが、いまタイの国で起きている政治や社会の変化、エイズとともに生きる人びとや隣国ラオスからの出稼ぎの若者の姿、日本とタイの地域医療の比較など、シェアの人間としても、臨床医としても、気づきを与えられたことを語り、さらに、今後いわゆる「現地法人化」を目標に歩んでいこうとしている、シェア・タイへの思いを綴らせていただきます。
1.タイの社会的危機
今年5月タイの国全体を震撼させた、タクシン元大統領派とされる反独裁民主戦線(UDD、いわゆる赤シャツ隊)と政府・軍との武力衝突は、軍の圧倒的勝利で終わりましたが、そのことでタイ社会に生じた深刻な痛手や反目を癒し、国民的和解が実現するには、長い時間がかかることとなるでしょう。18年前の1992年、やはり軍政に反対するチャムロン・バンコク前知事(当時)を中心とする市民が、バンコク市内の民主記念塔周辺を占拠し、軍と衝突になり、多数の犠牲者を出したとき、私はプライマリ・ヘルス・ケアの勉強のため、マヒドン大学サラヤ・キャンパスにあるAIHD(アセアン保健開発研究所)に留学していて、この悲劇に際会しました。今回の事件を日本から見ていて、一種の既視感(デジャ・ヴュ)に捕えられたのは、あのときの記憶がなまなましく甦ってきたからです。1992年の危機には、ブーミボン国王(ラーマ9世)がクライマックスでチャムロン氏とスチンダ将軍・首相(当時)の二人の領袖(りょうしゅう)を王宮に呼び出し、テレビを使った国民環視のもとで、王様ご自身の前に跪(ひざまず)かせ、国民の待ち望む政治的和解を一瞬にして実現したのでした。国王のすばらしい調停能力と道徳的権威に、タイ国民は息を呑んで感動し、タイ国市民でない私のような者でさえ、テレビの前で目頭が熱くなるのを禁じえなかったことを、鮮やかに記憶しています。今回はしかし、国家の究極的調停者としての王のお姿を拝見することはかないませんでした。ご自身が長く病を患っておられることと、その後、20年近い年月の中で、タイ王国が一層の経済的社会的発展を遂げ、単純な民主派対軍閥といった対立の構図では収まり切らない、都市と農村の分裂が生まれ、民主勢力の中での複雑な経済的・政治的利害対立が深刻化していたことも反映しているのでしょう。前回の反軍民主化運動では先頭に立っていたチャムロン氏が、今回は赤シャツ派と鋭く対立する姿勢を取ったと報道されていたことの中にも、私は歴史の舞台が一回転して、かつてとは一見正反対の役割を彼に演じさせたことのアイロニーを、感じずにはいられませんでした。 いずれにしても、タイの穏やかな国民性の中に深く蔵されている、かくも熱い民主主義への願いと、王制への信頼が、時間はどんなにかかっても、いま対立している人びとと党派の間での反目を溶かし、真の和解を生み出すことを、多くの日本人とともに祈りたいと思います。
2. ケマラートとラオス人移住労働者
さてシェア・タイは、2008年にウボン県のケマラート郡にプロジェクト地を移し、HIVに関する新しい活動を開始しました。ケマラートでは、活動の対象となる人々の重要な部分が、ラオスからの移住労働者から成り立っています。ウボン県はメコン河を挟んでラオスとの国境を形づくっており、県内8つの郡がメコンに接しています。そのうちでも、人口7万7千人ほどのケマラート郡はHIVの感染者数が8郡のうち2番目に多いのです。ケマラートには20ほどのカラオケバーがあり、ラオスから出稼ぎに来て、カラオケバーに住み込み、性産業に従事する若者(主として女性)も多くいます。仕事柄HIVに感染するリスクの高い彼らに対して、啓発・予防活動を行っていくことは重要ですが、これまでそうしたサービスにアクセスする機会が、彼らにはまったくというほどありませんでした。東北タイの農村で、地域住民に対してHIV感染予防啓発の活動を15年以上続け、ノウハウや地域の行政や保健・医療機関との信頼関係を醸成してきたシェアにとって、ラオス人移住者グループに対する取り組みを始めることはとても意義があり、挑戦のしがいのあることだったとも言えます。ウボン県保健局も、移住労働者の健康を守ることが、タイ地域住民の健康を守ることにもつながるという認識をシェアと共有し、私たちのケマラートへの展開を当初から応援してくれています。
実際にケマラートを訪れて、もともと人種・言語・文化において多くのものを共有するタイとラオスの間の人的・物的交流が、メコン河をまたいで年々盛んになるのは必然の勢いであることが実感できました。毎朝早く、滔々たる流れを越えて、ラオス側から農産物や魚などの河の幸を載せた船が対岸から幾隻も押し寄せ、50バーツの関税を払って商売を行い、タイの学校に通うラオス人の学生の一群もまた同じ船から下りてゆきます。ラオスへの帰りの船には、電化製品や生活用品などが積み込まれ、行き来する物資や人からも、2つの国の関係のありようが端的に示されていると思いました。
3.ケマラート郡病院性感染症クリニックとHIV陽性者
これは2008年までプロジェクト地のあった、ウボン県ワリン郡やアムナッチャラン県でも常にそうでしたが、シェア・タイは、県や郡の病院や保健局との協力・調整を尊重しつつ、PHAs(Persons Living With HIV /AIDS)と呼ばれるHIV陽性者・患者への支援を進めるという基本のやり方を、このケマラートの地でも守っています。
ケマラート郡病院には、タイの他の多くの病院にあるようにSTI(Sexually Transmitted Infections: 性感染症)クリニックがあり、HIV陽性者を含め、STI患者の治療、予防啓発活動を積極的に展開しており、日本のエイズ拠点病院・協力病院に比べて、遜色がないどころか、地域や患者に開かれている点、カウンセリングの質や個人のプライバシー尊重という意味でも、日本が恥ずかしくなるくらい進んでいるのです。
STI(性感染症)クリニックは、ケマラート郡病院内に併設されていますが、病院の正面玄関とは出入り口が別になっていること自体、患者のプライバシーへの配慮が感じられることでした。
STIクリニックの週間の活動は以下のようになっているそうです。
毎月 第1月曜 キッズ(小児)外来
第2月曜午前 PHAs外来。(免疫に関係するリンパ球CD4の数が350以下になるとARVsの投与が無料で開始されるとのこと。)
毎水曜 STI外来
毎木曜 結核外来
クリニック内というか、それに隣接してというか、一室がPHA用に病院から提供されていて、陽性者同士が立ち寄って情報交換をしたり、そこで執務するPHAのリーダーからカウンセリングをしてもらう機会も与えられています。ちなみに、2010年6月現在、ケマラート郡内で登録されているHIV陽性者(PHAs)は495名で、そのうち129名が抗ウイルス薬(ARVs)を服用中だということです。(この数は当然のことながら、月単位で流動します。)
センター長のピーエー氏(衛生士:Sanitarian)は、とても物腰が柔らかく、笑顔を絶やさない方で、シェアがこの地に入ったときから良好な協力関係を結んでくださっています。私が訪問したときも、STIクリニックの活動状況や疫学的なデータなどを丁寧に説明してくださいました。
4. PHAリーダーの家庭訪問活動同行
シェア・タイの広本充恵さんの話では、よいPHAリーダーのリクルートや育成はなかなかたいへんな課題のようです。ケマラート郡で抗ウイルス薬を服薬中の129名の仲間(子どもがこのうち10数名いるようですが)に対する家庭訪問などの自助・互助活動を継続的に行っていくためには、少なくとも10名のPHAリーダーが必要とされますが、現実には4名しか確保できていません。その理由の一番目には、経済的なこと、つまりリーダーたち自身も生活に追われていることが挙げられます。陽性者仲間への気遣いは常にしているとしても、自身の健康管理・病院受診、仕事、家族の生活の面倒、子育てなどにも時間を取られます。こうした私的生活と地域活動との調整・両立(juggling)を図り、機会コスト(Opportunity Cost)を許容限度内に収めておくことは、どの国・地域でも広い意味の保健ボランティアにとって困難な課題と言えますが、ケマラートもまた例外でないということです。基本的にPHAグループによる自助活動である以上、ボランティア的な性格は保持する必要があり、シェアから提供されるのは交通費程度だそうです。家庭訪問に使われるバイクもリーダー自身のものといいます。現在活躍しているのは4人だけで、とても対象者全員を1ヶ月のうちに回り切れません。通常2人一組で家庭訪問しているそうですから、月に40件足らず回るのがやっとのようです。
この日私たちは、フィールド・スタッフのニーナさん、および2人の女性PHAリーダーガイさん、ビーさんに同行して、計3軒のお宅を訪問しました。
一人目はWさん。35歳男性。妻は南部のソンクラ出身で夫婦には1歳の女児がいるが、現在妻子は地元に残っています。彼だけがエイズを発症したため、単身ウボンに戻り、県病院で6月15日から抗ウイルス薬(ARVs)3種類(3TC+EFV+TDF)の内服を開始しました。 咳や熱が続き、結核も疑われましたが、その疑いは晴れ、むしろ他の呼吸器感染症(細菌や真菌やトキソプラスマ感染)の合併と診断されたらしく、Clindamycin、Fluconazole、Azithromycin、Pyrimetamineなど複数の抗生剤がARVs以外に、多量に処方されていました。 経過は良好なようで、彼は早く妻子のいる南部に戻りたいと言っていました。体重も47kgまで減っていたのが、51kgに回復。次回ウボン県立病院に受診するのが、8月24日ということで、2ヶ月分くらいのARVsと上記の抗生剤が前回処方されています。抗生剤については、日本の病院ではまず考えられないくらい多種類・長期間の処方で、副作用が出たときや薬が効かなかった場合のことを含め、大丈夫なのかという心配が一瞬心をよぎりましたが、遠隔地からバスなどで通院しなければならない患者にとっては、この方がありがたいのかもしれません。
二人目はRさん。26歳女性。7歳の男児、3か月の女児の二人の子がいます。ケマラートの隣のポーサイ郡でセックス・ワーカー(CSW)をしていたそうです。HIV感染のルートは不明ですが、夫もエイズですでに亡くなっており、現在は70歳の母親の家の敷地内に、小さな家を建て、新しい恋人と暮らしています。彼にはすでにみずからのHIVステータスは打ち明け、理解を得ているようです。Rさんがはじめて自身のHIVのことを告白すると、新しい旦那は「俺を殺す気か」と冗談交じりに言われたそうですが、それでも連れ子も含め夫婦仲よく暮らしているところを見ると理解し合っているようです。Wさん同様彼女もまた、現在、ARV3剤のほか、Fluconazole、Co-trimexazole、Azythromycinという3種類の抗生剤・抗菌剤を服用中でした。
上のお子さんは検査の結果、幸いHIV陰性だったそうです。下の子を妊娠中の7カ月目からARVの服用を開始。子どもも誕生直後から1カ月間ARV(Nevirapine)を服薬させたとのこと。その後、服薬は中止、いまは粉ミルクだけで育てています。いまのところHIVは陰性ですが、まだどうなるか分からないという不安は母親としてあるようでした。毎月第二水曜日に粉ミルクをもらいにケマラート病院に行きます。無料で4缶もらえるそうですが、1カ月間使っても余るほどと言います。体重も生下時の2.4Kgから3カ月目で5.2Kgとまずまず順調に育っていると言います。
三人目は、Bさん。45歳女性。姉夫婦一家の敷地内に小さな家を建て、一人暮らしをされています。22歳の娘一人がバンコックで働いているとのこと。彼女もEfavirenzとStavudinの2剤のARVのほか、イソニアチド(INH)とリファンピシン(RFP)の2剤の抗結核薬および、Co-trimexazole(カリニ肺炎の予防薬)を服用していました。彼女は、背中に痛痒(いたがゆ)いできものが数日前からできていると訴えていました。見ると、かなりひどい帯状疱疹(Herpes Zoster)を起こしています。早く特効薬のアシクロビルを飲ませてあげたほうがよいので受診を勧めました。この日は午後になっていて、診療時間に間に合いそうにないので、明日、ニーナさんが付きそって郡病院へ行ってもらうこととしました。
5.ケマラート病院青年医師たちとの会食
ケマラート病院を訪れた7月5日の昼に、4人の研修医を招いて、シェア側の数人とで食事会を開きました。まだ卒後1-2年目くらいの若い人たちで、いきなり地方の第一線の病院に放り込まれて1ヶ月に15回とかいう当直もこなし、がんばっているのです。病棟の入院患者も診(み)れば、救急外来の患者さんにも昼夜を問わず、真剣に対応している彼らの姿には、心打たれるものがあります。ケマラートに限らず、どこの郡病院でも、おおむね院長以外は、こうした新米の医師によって地域の医療は支えられています。もちろん卒後研修制度として見ると、指導体制の弱さは覆い隠しようもないのですが、反面、日本のように、せっかく研修医を育てても、僻地医療の第一線や、都市部の医療崩壊に直面しているような中小病院の厳しい医療現場を担う、気概のある若手医師が決定的に不足している現実に比べると、タイのように、初期研修の中に僻地・農村での勤務をきちんと位置づけ、義務化したシステムを確立している国から学ぶべき点は多いと思いました。私自身、小児科で2年ほど研修をした後、チュニジアに出かけ、はしか・寄生虫症などの感染症、新生児ケア、小児疾患の予防活動など、当時日本では到底望むべくもなかった貴重な体験をすることができ、その後の臨床医としての歩みに、どんなに役立ち、大きなモチベーションを与えられたか、いまだにその頃のことを思い出すたびに、チュニジアの人びとへ感謝の念が湧いてくるほどです。
最近メディアでも大きく取り上げられたように、厚労省の調査によると、日本全国の病院の不足医師数が推計24000人に上り、しかも大きな地域間格差が生じています。卒後2年間の研修が制度化されたいま、3年目の後期研修の時期などに、半年でもよいから僻地の診療所や地域の病院で働くことを、研修のカリキュラムに組み込むことは、現在日本の地域医療が直面する危機的状況を改善し、若い医師たちにより広い社会的視野をもってもらう意味でも、とても有益なことと、このタイ人の若い医師たちとの対話を通して私は感じました。
6.MSMのミーティングへの参加
ご存知のように、MSMは’Men who have sex with men”のことで、ケマラート郡でのシェアのHIV予防啓発活動の対象となっているグループの一つです。複数のパートナーと交渉をもつ人も多く、性の自己意識(ジェンダー・アイデンティティ)がどうであれ、性行動としては男性同性愛の形を取るため、HIV感染のリスクが高くなります。タイではおおよそMSMの27%がHIV陽性と言われています。
シェア・タイのスタッフで、みずからMSMリーダーともなっている、チェリーンガームさんやペーさんが会議を司会する形で開かれたこの定例ミーティングでは、7月25日から始まる、ウボン市恒例の「ろうそく祭り」に合わせたイベントへ向けた準備などが話し合われていた。和やかで笑いが絶えないミーティングという印象でした。JVC(日本国際ボランティアセンター)とシェア合同の、南アフリカでのエイズ・プロジェクトからの訪問者を迎えて、どんな歓迎行事を企画し、一緒に文化交流をするかなど、皆が盛り上がり、楽しみにしている様子でした。タイ、南ア、ラオス、日本などさまざまな民族衣装を着てのパレード行進なども計画されているようでした。(その後、南アのHIV陽性者の人たちやプロジェクトの現地スタッフらが実際にケマラートを訪問され、シェア・タイの活動から大きな励ましと啓発を受けていったと聞きます。)
日本でも2004年7月から施行された「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律」(性同一性障害特例法)が、自己の<性>的なアイデンティティと肉体的な条件との乖離(かいり)に悩む人びとの問題に光を当てることとなり、彼らに対する社会的差別をなくし、職場や学校での理解を進める動きもすこしずつ活発になっています。
タイのMSMsには、女性と見紛うほど美しく、艶のあるひとがいます。彼らの中には、肉体的には男性としての特徴を備えながら、女性としての<性の自己意識>をもつ、いわゆるMtF(エム・ティ・エフ:Male to Female)の人が多いようです。当然、彼らは自分を女性と意識し、女性としての装いをすることに喜びを感じ、男性に惹かれることになります。
すこしでも、身も心も女性になろうとする努力を惜しまず、お金の許す範囲で、ホルモン剤を服用したり、女性的な身なりを心がけています。お金をためて小さな美容整形手術を受けたりはする人もあるようですが、本格的な性転換手術を受けることは、経済的にもむずかしいと聞きます。彼らにとって社会の中で差別とたたかいながら、仕事を見つけていくこと自体、たいへんなことなのでしょう。当然彼らの中にどうしても性産業に頼らざるを得ない人びとがいるのも現実のことです。その意味で、MSMのドロップイン・センターがシェアの事務所に隣接してあるという、現状がそのまま、シェア・タイの、または生まれようとしている新財団の「覚悟」、社会的差別を受けている人びとを、エイズのような病気から守り、彼らの人権を擁護しようとする「覚悟」のようなものを示していると言えます。大局を見失わず、バランスを取りつつも、社会の周縁に追いやられ、不利益をこうむっている人々に寄り添う姿勢を失わず、新しいシェアが育っていってほしいと切に思います。
7.郡保健所コンテストと祝典
ケマラートに移って以来シェアがもっともお世話になり、応援してくださったのが、ケマラート郡保健所長のナロン(Narong)氏です。彼の率いるケマラート郡保健所は、東北タイの数ある郡保健所(DHO: District Health Office)の中でも活発で、優秀な保健所としての評価を得ているようで、今年度の東北地方の郡保健所活動コンテスト・祝典の最終予選にケマラートが勝ち残り、最後の選考の会および祝典を7月6日に同地で主催することになりました。
この記念式典には、ウボン県内外の多数の保健・行政関係者、数百人の保健ボランティア(オーソーモー)などが参加、にぎやかなお祝いとなりました。もし最優良DHOに選ばれる、つまり優勝すると、たいへんな栄誉にもなり、この日の式典のホスト役として、郡保健局長のナロン氏が全力で準備に当たられたのはよく理解できことです。ケマラート郡内で活動するシェアのような多くのNGOやCBO(住民自主団体)のテントも会場には立ち並び、それぞれの活動内容について説明、プロモーションを盛んに行っていました。テーマはやはり郡の住民保健に関わることだけあって、エイズなどの疾病予防や水などの環境衛生・保全に関わるものが多いようでした。シェアのテントももちろんあり、MSMのボランティアたちが臆せずに笑顔で、HIVの感染予防行動の大切さについて説明に立っているところはとても心強く感じました。今まで、社会的には「日陰」にいなければならなかった彼らにとっても、こうした人前で活動する場を得ることは、誇らしく、自信につながることなのでしょう。
お歴々に混じって、私にも短いスピーチの機会が与えられたので、ウボンやヤソトンやアムナチャランの諸県で、工藤芙美子さん以来、シェアが20年間お世話になってきたことに感謝するとともに、今後もケマラートにしっかり根を張ってがんばっていく旨の挨拶をさせていただきました。もちろんケマラート郡保健事務所とそれを率いるナロン氏への賛辞も忘れずに。外国人が応援演説をするのはこうした式典の場では一種のアトラクションになるのか、ナロン所長というくだりで大きな笑いと拍手をいただきました。
8.現地財団化へ向けて -まとめとして
今回の私のタイ出張は、新しい現地法人としてのタイ・シェア財団を無事発足させるための、発起人会準備会兼理事候補者とシェア・スタッフとの合同ミーテイングへの参加・意見交換が主たる目的でした。タイの法律にきちんと適合するように、人事、財務、活動内容、事務所などを名実ともにしっかり整えた上で、財団登録を行い、かつ日本のシェアとの今後の建設的な関係を構築していくなど、まだまだ課題は山積していますが、幸いチェリーさんをリーダーとするタイ人スタッフの士気も高く、新しい財団を引っ張ってくださる予定のアーカード医師をはじめとする人たちとの信頼関係も、工藤芙美子さんの長年の貢献もあり、しっかりしていますので、なんとか来年中には新法人設立にこぎつけたいと願っています。
今回、7-8年ぶりでタイを訪れ、20年前とすこしも変わらないところと、大きく変貌しつつあるタイとの2つの面に打たれました。タイ社会独特の住み心地のよさ、食の豊かさとおいしさ、タイ人のホスピタリティの温かさは変わるところなくそこにありました。しかし、冒頭に述べましたように、ブーミボン国王も齢(よわい)を重ねられ、病をおもちで、現行の統治システムや国の未来に対して人々が不安を抱くなかで、赤シャツグループに象徴される、地方から中央への強烈な異議申し立ての運動が、社会に大きく深いFault-line(断層線)をくっきりと描き出しました。21世紀のタイにふさわしい、新たな国民の和解と王政を含む社会契約のようなものが切に求められている時期なのでしょう。それがどういうプロセスと形で実現できるのか、タイ人皆が真剣に模索していると思います。公正で透明な総選挙を通して、新しい、民主的なリーダーが生まれ、そうした道筋が示されるのかどうか、この1-2年のタイ社会の動きは、私たち日本人にとっても目が離せない、重要なものです。
そんな中、ケマラートというタイの東北周縁地域に移り、2年前から活動を開始した、シェア・タイは、このコミュニティの中で確実に根を下ろし、住民や行政などから受け入れられ、信頼され始めていることを、今度の旅行を通じて実感することができた。これは、工藤芙美子さんをはじめ、歴代のシェア・タイを支え、育ててきてくれた、タイ人、日本人共同の努力の賜物であったことを痛感します。
ケマラート郡が、さまざまな困難にもかかわらず、もともとのイサン(東北タイ)の住民に限らず、ラオスからの出稼ぎ者、MSMs、エイズ患者、HIV陽性者、障害者、学校の生徒など、社会の多様な構成者に対し、inclusive(包摂的)なコミュニティであろうと努力していることは、先ほどの述べたような、タイ社会の抱える深刻な課題に照らしても、希望を感じさせます。実際、移民労働者やMSM、エイズ患者らが人間としての誇りや尊厳をもって生きられる民主的なタイ社会は、多民族共生の21世紀日本社会を作っていく必要のある私たちにとって、大きな啓発と示唆を与えるものとなっていくことでしょう。
最後に、7月のタイ訪問を実現する上でお世話になった、チェリーさんをはじめとするタイ人スタッフ、HIV陽性者グループ、MSMの人びと、現地アドミニストレーターの広本さん、アーカード先生やピーテンさん、東京本部の西山さん、小林事務局長、沢田副代表らに心から感謝いたします。
(2010.10.24)
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