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街裏ぴんく/虚構の身体性

街裏ぴんくがR-1グランプリを獲ったという嘘のような本当の報せにとてつもなく心が踊った。そして実際に放送を確認して更に興奮する。ピン芸という何でもアリの大会において、漫談というステゴロなスタイルで勝ち切っており、しかも最終決勝ネタは彼のポッドキャスト番組「虚史平成」で放送された漫談をベースにしていたからだ。

これだけ多彩な笑いの選択肢が溢れる現代において、彼のスタイルはどんな場所でも変わらない。嘘を堂々と漫談として語っていくあのネタのみ。劇場だろうが、寄席だろうが、テレビだろうが、ポッドキャストだろうが、賞レースだろうが、彼は嘘漫談を貫く。その美しきファイター・街裏ぴんくの魅力を今一度書き残そうと思う。


迫真の嘘

コントも漫才も落語をはじめとする多くのピン芸も“虚構”を上演するものだ。コントは当然、物語を演じるのであり、漫才も喋くりの掛け合いであれあくまでネタである。落語も演目を演じながら虚構を立ち上げていく。お笑いという虚構の芸術の中、唯一、極めて現実に近くなり得るのが“漫談”であるはずだ。その人そのものが、その人として話をする。それがよく見る漫談である。

しかし街裏ぴんくはその漫談にこそ嘘を注ぐ。芸能人のエピソードや個人の思い出の中に、奇妙な出来事や奇怪な固有名詞を散りばめ、幻惑的な世界を作り出す。特徴的なのは物語を演じるのではなく、あくまで言葉のみを届け、笑える光景に変換するのを聴き手に任せている点だ。容易に消費されづらい、高い集中力と想像力を要する街裏ぴんくの漫談はシンプルだが重厚な笑いを放つ。


R-1ではその熱量が評価されたが、個人的には随所に挟まれる軽い語り掛けも印象的だ。「覚えてるよね?」「あの頃って〜〜だったやんか」「みんなも知ってると思うけど、、」など。1つ足りとも身に覚えはないが一瞬頭を回してしまう、あの薄い共犯関係を結ぼうと仕掛けてくる小さな枕詞こそが彼の漫談を迫真の嘘にするのだろう。ペラペラの虚構に語り掛けが身体性を宿すのだ。

他者に対して意図的に嘘を真実であるかのように信じさせることを心理学用語でディセプションと言うが、街裏ぴんくにネタはまさにディセプション漫談だ。理念、思想、謀略、迷惑。嘘に紐づくあらゆる付随要素を振り払い、純粋なくだらなさだけを抽出した美しい嘘。そんな彼の漫談を見るとと何かを揶揄したり、共感を求めたりする種の笑いが一気に無効化されるような気すらする。





漫談の可能性

先述のように、街裏ぴんくは今TBSラジオのポッドキャストとして『虚史平成』を放送している。街裏ぴんくがたまたま目撃していた“平成で起こった事件・現象”を独白するアーカイブプログラムと題されているわけだが、これは話し手のパフォーマンが見えないポッドキャストという特性を活かし、更なる新表現を極めつつある。

「ファービー」の回は、禁じ手に思われた虚構側の本人登場が行われる。”虚“そのものに”虚“を語らせるという、ポッドキャストならではの手法。


「バトルえんぴつ」の回は実際にバトえんを転がしているかのような、ゲーム性と即興性の高い(ように見える)話ぶり。衝撃的な幕切れである。

「だんご3兄弟」の回はこれがSpotifyから聴こえてくるという異様さに打ち震えるはず。これも声だけ、という特性を活かした不気味さがある。


個人的ベストは「ナタデココ」の回。10分間でここまで気持ちが揺さぶられるのか。音量は要注意、けれども最初に聴くならこれを勧める。


これは期待を込めた予感でしかないが、街裏ぴんくは例年のR-1覇者の中ではどちらかといえば多くテレビに出ていけそうなタイプと言える。嘘だらけの漫談ではあるが、漫談という形式を取っている以上、街裏ぴんく本人の奇異性も際立ち、堅実なネタ芸人でありながら、ザコシやゆりやんとも近い“その人として凄み”を演出することに既に成功しているからだ。その輝かしい未来の可能性を、悦夫・越・嗚咽先生もアラビア半島できっと微笑ましく思っていることだろう。


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