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わたしの自分史-今のわたしができるまで-②

大学時代は、ひょんなことから、あるボランティア団体の中のグループに所属することになってしまった。
そこでは不登校のこども達と関わる活動をしていて、琵琶湖のそばでキャンプをしたり、雪山に行ったり、毎月イベントを開催するグループだった。

わたしは当時、こどもに興味があったわけではなかった。
ともだちがこのボランティアに興味があると言ったので、説明を一緒に受けに行ったら入ることになったのだ。
ただひとつの関心は、わたしの地元でこの活動拠点があることを知って、どんな場所なのか見てみたいという好奇心だけだった。

そこは、学生主体で活動をする団体だったので、作業が続いて徹夜したり、ミーティングしたり、キャンプしたり、イベントしたり、学生スタッフの募集に駆けまわったり、忙しいのは日常茶飯事。
学生生活の大半はこの活動に費やし、学生らしいことはほとんどしてこなかった。
そのかわり、普通の学生生活では味わえない体験もたくさんさせてもらった。

たくさんの仲間と出逢って、ひとつのゴールに向かってみんなで取り組むということを多く経験した。効率のいい作業の仕方を学んだし、タイムテーブルってどういうものか学んだ。イベント告知のビラを作ったり、キャンプごとにみんなのメッセージや歌などが入ったアルバムを作ったり、ビデオ編集をしたり、1年間会計担当になって勘定奉行というものの存在を初めて知ったり笑 イラストが描けるからと、キャンプのしおりやビラなど、挿絵を描かせてもらうことも多かった。

しっかりつくり込まれたキャンプファイヤーを初めて見た時は感動した。ドラム缶風呂や、切り倒した竹から大きな流しそうめん台をつくってこども達と楽しんだり、琵琶湖ではしゃいだり。
白神山地に行って、富士山に登ったこともあった。(8合目で天候悪化で下山したけれど)
関わるこども達の成長がわかると、嬉しかった。

この頃、ようやく自分の言葉で話す、伝えるということを始めた。
自分の想いを話すことをしてこなかったわたしは、それを言語化することがとっても苦手だった。言語化できるようになるまで、根気強く付き合ってくれたセンパイや、ファシリテーションのワークショップを提供してくださった社会人スタッフにとても感謝している。


大学生活も終わりに近づく頃、周囲は就職活動と試験に向けて動き出していた。
わたしは声優の夢を持ち続けていたから、まともに就活をしていない。でも周りがやってるからという理由で少しだけ就活をしたりして、今思うとほんとに軸がブレブレだった。
(内定もひとつ頂いたのに断ったりして、メーワクな学生でした。。)

試験というのは、福祉を専攻していたので、社会福祉士の国家試験。大学で試験対策の講義があったので一応受けていた。
福祉に進むつもりはなく、最後の記念として試験を受けることにしていた。
こんな気軽な感じで受験したのに、合格がわかった時は本当に驚いたし、受かりたかった人に対して申し訳なさが出てきてしまった。
わたしはすごいとか一切なくて、なんで合格したのか、いまだに不思議。

結局、就職はせずにフリーターをすることにした。
お金を貯めて、東京の専門学校に行くという漠然とした希望を持って。
フリーターになることに、親は何も言わなかった。

大学卒業後は、学生から続けていた運送会社の集配のパート勤務と、百貨店内の食品販売の仕事の掛け持ちを4年続けた。朝は百貨店、昼から集配の日々。
体を動かすことが性に合っていたのか、掛け持ちはまったく苦ではなかった。集配の仕事は学生時代と合わせて約6年続いた。

この集配バイトは、わたしにとって大きな出逢いをもたらしてくれた。
ひとの多様性について考えることが増えて、わたしがそれについてどう思うのかも明確になった時期でもあった。

③へ続く

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