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「美魔女」と「AKIRA」に通じる『リアリティ』の話。

私は美魔女に目が無い。

今回は美魔女の『リアリティ』について書こうと思う。
おおよそ8割の人がサムネイルとタイトルに騙されて来たAKIRAファンだと思うので、AKIRAの中身や都市伝説の話を期待しているのならすぐに「スキ」だけ付けて退散すべきだろう。

私は以前から若くてピチピチのアイドルや女優を見ていて思っていることがある。それは「リアリティがない」と言うことだ。
ただ、それが一体全体何に起因するものなのか、どういったカラクリでそんな感情を抱くのかが言語化できずにいた。そもそもそんなくだらないことを真剣に考える時間を取らないからだ。

しかし、今回ない知恵を絞って考えてみた。
そこで新たな仮説「美魔女とはAKIRAである説」を提唱するに至った。

順を追って説明して行こう。


1.「主観的情報」と「客観的情報」

ドワンゴの川上さんが出した「コンテンツの秘密: ぼくがジブリで考えたこと」と言う名著がある。
この本には川上さんがジブリの鈴木プロデューサーの付き人をしていく中で見えた発見を赤裸々に、超論理的に説明してくれている。

その中に「主観的情報」と「客観的情報」と言う話が出てくる。
超簡単にまとめて説明しよう。

人が映画やアニメなどコンテンツから受け取る情報には2つの見方がある。1つが「客観的情報」であり、これはアニメなら描かれた線1本1本や色など、事実としてそこに存在する情報を指す。
つまり、劇画タッチのAKIRAは線の数が多く、デフォルメされたあたしンちは線の数が少ないので、比較するとAKIRAの方が「客観的情報量が多い」ということになるのだ。

一方で「主観的情報」とは人間がそのコンテンツを視聴して脳内で処理された情報を指す。これに関しては線の数なんて関係がない。いくら線を細かく多く書いたところで、人間が脳で処理できる情報量は限られているからだ。
つまり「主観的情報量」を多くするためには、脳で処理しやすい情報であるべきなのだ。

この観点でいえば、宮崎駿のアニメは主観的情報量が多いのだと言う。宮崎駿の感性に基づいて「良し悪し」を決めて作っているジブリのアニメでは、監督自身の主観によって作品を作り上げるので、自然と主観的情報量が多くなるのだ。
つまり観た人の脳へスムーズに処理される映像なので、心地よくコンテンツを楽しめるのだと言う。

少々小難しくなってしまい申し訳ない。
気になる人は本を買うか、まとめサイトで見てほしい。

とにかく、この「主観的情報」と「客観的情報」という考え方が美魔女の価値を理解する上でとても有効なのだ。


2.美魔女とAKIRAは客観的情報量が多い

前述の考え方を応用すると、美魔女は客観的情報量が多いということになる。なぜなら若い女性よりも目尻やほうれい線に小じわが目立つからだ。
アニメでいえばAKIRAのように細かい線で細部まで緻密に描き込まれている状態だと言える。

広瀬すずは肌がスベスベでシワもないので、のっぺりしている。
一方で水野美紀は美しい顔を保ちつつも、やはり小ジワが目立つ。
故に、二人をデッサンする場合、時間がかかるのは水野美紀だろう。

ここで疑問に思った方もいるだろう。
「客観的情報量より主観的情報量が大事なんじゃないの?」と。

その通り。
ここからがシャニカマの新説なのだ。


3.客観的情報量が多いと「リアリティ」が生まれる

客観的情報量が多いことによって、コンテンツを楽しむ側としては「想像の余地」が狭くなる。そこに描かれた情報が多いと、定義される部分も多くなるからだ。
例えば「目の周りはこのぐらい凹む」「頰は少しこけて、口元にかけて深さ0.5cmのシワが切り込まれる」といった具合に、どんどん定義されてしまうのだ。

つまり、人間が勝手に空想する「ファンタジー」な部分はどんどん無くなり、その分明確な「リアル」になっていく。まさに「リアリティ」である。
『あたしンちの母とモナリザならどちらが生身の人間に近いか』と考えれば分かりやすいだろう。

AKIRAだって、完全なるSFにも関わらず超緻密に描かれた絵のタッチや、ぬるぬる動くリッチなアニメーションのおかげで、そこにありありと「NEO東京」を描いている。


4.「リアリティ」は「違和感」を生む

線が細かくなり、リアリティが増せば増すほどに「違和感」が生まれる。
なぜか分かるだろうか?

前述の宮崎アニメがそうであったように「人が脳で処理しやすい情報」というものが存在する。例えば宮崎アニメで言えば、そこに登場する飛行機は物理学上あり得ない動き方をするそうだ。
しかし、実際の物理学に適っていなくとも、人間が「飛んでいる!」と感じやすい動き方をしているので脳が理解しやすいのだ。つまり、脳は必ずしもリアルなものを求めていないと言うことになる。

故に、リアルな絵になればなるほど人間の脳が思い描く「こう動いて欲しい」という姿からは乖離していき、脳が求める像とズレが生じてくる。
一度、広瀬すずを思い浮かべて欲しい。そして彼女が百人一首でカルタを勢いよく弾くところを想像してから、実際にYouTubeで「ちはやふる」の予告編を観てみるといい。絶対に想像と乖離しているはずだ。

つまり、脳内で思い浮かべた広瀬すずは「脳がそう動いて欲しい」と思って動いた広瀬すずであり、予告編に出てくるのは物理学の法則に従って動くリアルな広瀬すずなのだ。ここに「違和感」が生じる。

AKIRAにしても、スタイリッシュなバイクや鉄雄の腕から超巨大に膨れ上がる未知な生命体は明らかに違和感満載の代物である。自分が知っている世界には絶対存在しないものだから故に想像の範疇を超え、違和感をもたらすのだ。


5.「違和感」が「興味」につながる

ここまで読んでいることに驚きを隠せない。
本当にお疲れ様である。

さあ、やっと最後だ。
ここで「なぜ美魔女っていいんだろう」の一つ答えが出る。

先に述べた通り、美魔女は客観的情報量が多く、それは違和感を生む。
その違和感は何を生むだろうか?

それが「興味」である。
人は違和感があるものを見ると興味を持ってしまう。
おそらく動物的な本能として、普段自然にないものを見ると「敵か?」「毒か?」と思う感覚なのだろう。

新宿の地下道を歩いているときにスーツのおっさんには目もくれないのに、セーラー服のおっさんがいると見てしまうのと同じだ。違和感があるから興味を抱くのだ。

AKIRAだって映画では「ダーン」と言った人の声をSEとして使い、核エネルギーを少年に置き換えて描くなど斬新なことのオンパレードだったからこそ、人の目をひいたのだ。興味を喚起したのだ。

そう。
その「興味喚起」こそ。
美魔女が持つコンテンツ力、いや魔法そのものなのだ。

しかし、「興味」はあくまで入り口にしか過ぎない。
その入り口からどう浸水させていくか、魔法にかけていくかは今後の美魔女論で迫っていこうと思う。

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