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趣味の読書を『勉強』と言い張って社費で買いたかった。

お金がありません。

同情の代わりにお金がもらえるなら亀甲縛りで大阪駅を練り歩く所存ですが、同情よりヒンシュクを買いそうなのでよしておきます。

先月から晴れて正社員になり、収入が安定するように思えたのですが、気がつくと残高が遠足のおやつも満足に買えないレベルになっているのは何故でしょうか。

社会人は4年目にもなろうという年。中学生が因数分解とオ●ニーを覚えて高校受験を終えるような年月を経て、足し算と引き算しか使わない「貯金」も満足に出来ないでいるのです。

「金が貯まらないので給料を上げてくれ」と入社早々、今考えれば馬鹿みたいに乱暴な依頼を社長にしたところ「じゃあ歩合にしてみる?」と言われたのですが、パンの耳だけ生活に耐えかねて自分の耳を削ぎ落とす未来が浮かんだのでやめました。

そこで私は「会社の福利厚生を余すところなく使い倒そう」と考えました。
発想がいささかポイントカードを自在に使い分けるイタい主婦みたいですが、ここで下手に「節約しよう」とか考えないのは、自分の見て見ぬ振りをしている浪費癖に自己嫌悪することは想像に難くないためです。

実際、うちの会社ではノマドワークする際のコーヒー代を経費で出せたりするので、朝一のコメダ珈琲でコーヒー1杯を注文して朝食のトーストにありつくようにはなりました。

ただ、私にはまだ使いこなせていない福利厚生があります。
それは「勉強代制度」なるものです。

月に一定額までなら「勉強代」として会社のお金で映画や美術館の展示など、コンテンツに触れても良いという夢のような制度です。
私は毎月10冊以上の本を買うので(読むのは4〜5冊)、そのお金が浮けばお金も貯まっていくに違いありません。

そこで先日社長に「小説とエッセイは勉強に入りますか?」と、遠足時にバナナをおやつと称して持参しようと試みる少年のように無垢な眼差しで尋ねてみました。

返事は「え、それは趣味じゃなくて?」です。
たしかに、私は読書を「勉強」だなんて思ったことは一度もありません。

今日読んだ「ナンシー関の予言・名言」から得たのは「羽田惠理香というアイドルが電波少年でレイプ魔をスリッパではたいた」という衝撃の事実だけですし、その前に読んだカレー沢薫の「負ける技術」に至っては何が書かれていたのか思い出せません。なんか終始笑ってました。

かといって美術館へ行っても、モネ展で「こいつはハッキリ描けないのか?」という部分で躓くような自分が学べる事はないでしょう。(それが印象派だと後で知りました)
映画も興味がさほどなく、次に観たい映画は007の新作ですが、中学生の時にオ●ニーのおかずにしていたよしみで観たいだけです。

それに、結局本を買うお金が浮くわけではないので、やはりかくなる上は「趣味じゃない、勉強だ!」と言い張るしかないのです。

1つ「企画書を書く時に文章で面白さを伝えるストーリー構築力が磨ける」という屁理屈が思い浮かびました。
企画書は担当者を飛び越えて、様々な人に資料だけで面白さを伝えなければならないので、その時に「文章でいかに魅せるか」を左右するストーリーテラー的能力が重要になると踏んだのです。

しかし、これはダメでしょう。

実は会社の勉強代を18万も使ってコピーライター養成講座に通った武藤先輩というディレクターがいるのですが、彼は受講後に変なクセがついて企画書を無理やりストーリー仕立てにしてめちゃめちゃになった経歴の持ち主。
最近では「たぎる」というフレーズに凝っていて、何が起きても「たぎるな」としか言わない思考停止おじさんに成り果てています。


他にも「ボキャブラリーが増える」とか「感受性が豊かになる」といった妙案も浮かびましたが、普段から「今通った人美魔女っスね」「あの店員さんグッときますね」ぐらいしか感想をいう機会がない私が言っても説得力に欠けるのは自明。

それに、たとえ了承されたとしても「じゃあ最近の学びを教えて」と言われても「みうらじゅん最高っす」「ナンシー関もいいっす」しか返せないと返済義務が発生しそうです。

というわけで、私の結論は「なるべく中古で買う」になりました。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。