折坂悠太、夏の終わりの「朝顔」
折坂悠太の「朝顔」を聴いてイメージしていたのは、まぶしい日射し、朝から全力で鳴くセミ、夏の盛り。窓を覆うようによく伸びた朝顔の蔓、鮮やかな葉の緑、瑞々しさ、膨らむ蕾、散水にかかる虹。
夏の歌には生命力を期待してしまう。生命力に溢れる世界にほだされて、朝を前向きな気持ちで迎えられるように、願う。
2019年の夏、「朝顔」という歌をそんな風に捉えていました。ところが最近になって、折坂悠太自身の元々のイメージはちょっと違ったんじゃないかという気がしています。そう思わせるきっかけがありました。
「朝顔」はフジテレビのドラマ「監察医朝顔」の主題歌として制作され、2019年8月に単曲で配信されていました。その後ドラマの続編にも主題歌として採用され、2021年3月には同曲を含む5曲入りミニアルバム「朝顔」がリリース。で、そのCD版の先着購入特典CD「asagao_demo_0530」、これが事件だったんです。
原曲のCDにその元になったデモ音源がおまけで付いてくるという、普通ではありえない特典。ですが、この音源はまさに「朝顔」の原形で、最終版にはない貴重な情報が含まれたお宝音源でした。
メロディが告げる夏の終わり
まず冒頭2小節のイントロからして思わず「ええっ!」と声が出てしまいました。「夏の終わり」なんです、森山直太朗の。
デモ音源を再生すると、まずこの「なーつのおーわぁりぃーーー」のメロディが聞こえてくる。なかなかに大胆な引用ですが、でも、面白いと思いませんか。イントロ後の歌の始まりは
ねえ どこにいたの
です。これが「夏の終わり」の引用によって
(夏の終わり)
ねえ どこにいたの
になる。歌詞のないイントロがナレーションとして機能するんです。「夏の終わり」が誰でも知っている歌だからこそ成立するギミック。さらに、イントロだけでなくサビの「庭を選び」の部分も「なーつのおーわぁりぃーーー」に近いメロディになっていて、
埃舞う風に散らされようと
朝に焦がされて声もなくとも
その庭を選び
(夏の終わり)
今に咲く、花!
のように夏の終わりであることをあらためて告げています。
夏の盛りではなく、夏の終わりの朝顔。
あえて挿入されたこの「夏の終わり」には強い意味があって、歌そのもののイメージを形作る骨格になっているはず。
夏の辺を歌うこと
繰り返しますが、夏と言えば生命力。
ところで、「なつのべ」リリース時のインタビューでは、こんな発言がありました。
歌を歌うっていう行為自体が、お祭りだったり宗教的な行事に近いというか、そういう中で生まれてきたものがあると思うんです。こういう言い方しちゃうとスピリチュアルな感じになっちゃうんですけど、今いるこの場所と別の次元、あっちとこっちを繋ぐ役割として歌うというか、歌そのものの性質がそういうものなんじゃないかなって。
夏は他の季節よりも、肌とシャツ、自分と他者、生と死などの境界があいまいになりやすい季節です
夏はお盆があるし、自然に触れる機会が多いこともあって、ちょっと死と近い気がしていて。「なつのべ」っていう曲にはいろんな意味を引っ掛けたんですけど、「夏の辺」って漢字でも表せるじゃないですか。こっちの世界とあっちの世界の境界が曖昧になるっていう意味で、「辺り」っていう言葉が1番近いかなって。
なるほど、夏は、生が強さを持つと同時に、死もまた境界を侵してくる。デモ版の歌詞にもこんなくだりがあります。
お祭囃子に 囲む火の匂いに
今でもあなたが踊っている
文字どおりスピリチュアル。もういないあなたがそこで踊っている。でも夏は、特に暑い夏の夜は、そんな感覚に身を委ねてしまうことに躊躇がない、ちょっとわかる気がします。歌を、音楽を楽しむことの何割かはそういう類の快楽だと思うので。(特に折坂悠太の歌声は、目に見えないし触れることもできないのに肉体感があって、その生々しさが快楽的だなあと。)
同じ庭で継がれる朝のリレー
さて、その夏も終わりになると、曖昧だった生と死との境界がまた明らかになって、生きている者と死んだ者とに別れる。庭の朝顔を見れば、葉は灼けて青さと潤いを失い、ツルはくたびれ、花はしぼみ、つまり枯れていく。一方、僕の生活は続いている。
ただ、朝顔は、枯れ絶えてしまう前に種子を残します。歌詞の中に種子という言葉は出てこないけれど、種子はある。
ねえ どこにいたの 窓辺には空白んで
僕につげる「また恋をするよ」と
伏せてた写真が微笑むように
知らない季節が来るかのように
去りゆく影に歌を返し
まだ見ぬ君を語り明かす 飽きもせず
次の夏も朝顔は咲きますよね。たぶんその次も、さらにその次も。
次の朝が来る、次の季節が来る。誰かが死ぬ、誰かが生まれる。
この曲は、大きくうねって螺旋を描くような時間の流れを強く意識させてくれます。「朝のリレー」という谷川俊太郎の有名な詩がありますが、その詩の場合、経度から経度へと、空間的に朝を引き継いでいくのに対して、「朝顔」デモ版は過去、現在、未来へと同じ庭で朝が繋がっていくようです。
広大な宇宙、永遠とも思える時間の流れの中に、無数の人が生まれ、死んでいくわけで、その超広角かつ多層タイムラプスな視点から、今に生きる小さな僕を見つけてクローズアップしているのが、このデモ版なのではないでしょうか。まあ、ちょっと誇張かもしれませんが、言ってる自分もくらくらしてくる。。
でも折坂悠太の本当にすごいところは、くらくらして気持ちよくなるんじゃなくて、『今、ここ』の解像度をしっかり上げて描ききることなんですよ。それがこの最後の部分。
「色はなんか?」
「群青!淡紅!」
「そりゃ結構」
「そりゃ上々」
夏の終わり、今、この庭で、花を咲かせている朝顔。そして、その朝顔を囲む人々の生活。
デモ版の歌詞に初めて触れたとき、まずこのパートがあったことに驚きました。ドラマ制作サイドと摺り合わせるなかでバランスをとるために付け加えたのだと勝手に思い込んでいたので。でもあらためてデモ版の歌詞をなぞると、このパートなしでは「朝顔」はありえないなと思うわけです。「朝顔」リリース後、Rickyさんがこんなツイートをしてましたが、今頃になって御意!御意!と全力で頷いております。
さて、デモ版の歌詞を聴き取って書き起こしたものをまとめておきます。
あくまでも聴き取りなので、正確ではありません。あと表記も、例えば「彼方(あなた)」とか自分が勝手にそうしただけなので。「こうなんじゃないの?」と思われたら是非ご一報ください。
あらためてリリース版を聴く
これを踏まえてあらためてリリース版の歌詞を振り返ってみると、リリース版ではとにかく『今』をより強く歌っていますよね。
ここに 願う 願う 願う
今の僕が主人公で、君が朝を愛するように願い、もういない人を思い、これから生まれてくる者たちを想像する。今の僕が座標軸の原点で相対的に過去と未来があって、この先の僕の物語をほのめかす。月9ドラマの主題歌としてそのように仕上がったのはわかる気もします。
この「朝顔」、2019年のリリース当初は、シンガーソングライター折坂悠太の新曲というより、折坂悠太が歌うドラマ主題歌という印象が強くて、他の曲と並べたときに浮いてしまうんじゃないかと思っていました。ところが、2021年にはこのとおり折坂悠太の代名詞的代表曲になってしまった!
重奏メンバーとともに出演したミュージックステーションもすごかった!ひれ伏すしかないです。
リリースから三度目の夏を迎えようとしています。「朝顔」は夏が来るたびに僕の生活の窓の下にも咲いていますが、これから先もずっと咲き続けるような、でも毎年色や大きさが少しずつ変わったりして。「朝顔」を聴いて、永遠を夢見ながら同時に無常を味わっています。
あとがき
冒頭に公式のツイートを貼り付けましたが、そこに、
折坂曰く「これ、ちょっと面白いですよ」とのことです。
とありました。本人が面白いですよって言ってわざわざ特典にしているのに、世間ではあまり話題になっていないようで、インタビューでも詳しく触れられることはなく(まあ特典なので仕方がないかもしれませんが)。だから僕としては、とにかく話題にしたかったのです。以前「さびしさ」についてだらだらと書き連ねて公開したことがありましたが、自分でも何を言っているのかわかんないような恥ずかしい文章で(読み直したら番外だけはまだマシだった)、もうやめておこうと心に決めていたのに。ポエムっぽくなっちゃうし。それでも話題にしたかった。それだけなんです。
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