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湯川秀樹 詩と科学~読書記録87~

1949年(昭和24年)、日本人初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士。
こちらは、戦前から博士が書き溜めておられた文章を2017年に平凡社が編集されたものである。
字も大きく(老眼オバサンです)、旧漢字、旧カナが直されていて読みやすい。

私は、朝永振一郎博士も好きなのだが、高校、大学の同級生だそうで。
お2人がノーベル賞を受賞した当時、東大が京都大学に負けた・・・・と言われていたのだ。

湯川博士の生きた頃には、パソコンも携帯電話もなかった。科学や医学も博士が生きた時代よりも細かく分かれたのが現代だろう。例えば、昔は風邪でも盲腸でも火傷でも1人の医師が診てくれたが、今は部位ごとに専門分野というものを重視する。
情報収集も湯川博士は、新聞、雑誌、ラジオを提唱されているが、今はインターネットが主になるのだろう。
湯川秀樹博士と朝永振一郎博士の恩師である仁科芳雄先生については、1951年に会った時に「還暦なのにお若い」と書かれている。
昭和20年代の60歳は長生きであった。
科学や医学の進歩についても危惧することを書いている文もある。
例えば、臓器移植のことなど。
原爆投下をも含む戦争体験をされた故に、科学者としての在り方。
湯川秀樹博士は、水爆実験での犠牲者についても悲しく語られている。
このように、昔のエッセイから学ぶことがおおいにある。
21世紀に、湯川博士がおられたら今の科学、医学をどう感じるであろうか。

仁科芳雄博士は、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士を教え導いた方で、小保方晴子さんで有名になった理化学研究所の初期研究員であった。



詩と科学。遠いようで近い。近いようで遠い。化学は厳しい先生のようだ。いい加減な返事は出来ない。詩は優しいお母さんのようだ。どんな勝手なことを言っても、たいていは聞いてくださる。
しかし何だか近いようにも思われる。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。
詩と科学は同じ所から出発したばかりでなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠く離れているように思われるのは、途中の道筋にだけ目をつけるからではなかろうか。 1946年 39歳



何もかもが一つであった時代、哲学が同時に科学であった時代。われわれはこれを古代と呼ぶ。科学が哲学から別れた。そしてさらに科学自身が数えきれないほど多くの専門分野に枝分かれした。
大多数の人々は、文学や哲学や宗教に対すると同程度の親しみを、科学に対して持っていないように思える。その主な理由が今日、自然科学が多数の分科に分かれ、それぞれが高度に専門化されている結果として、相当程度の予備知識がなければ、その内容を十分理解しえないという事情にあることは明白である。
この世界には自分の他に他人も住んでいる。自己も他人も同じ一つの世界に住んでいることは確かである。
事実という以上は1人の人の個人的体験であるに止まらず、同時に他の人の感覚によっても捕らえ得るという意味における客観性を持たねばならぬ。
1947年 40歳

私はだいぶ以前から座右銘を書くように依頼されると、「一日生きることは、一歩進むことでありたい」ということばをたびたび書いた。
人類社会における科学技術の発達が、社会自身の暴走と破滅をもたらさないように、自己制御する、そういう意味の科学技術の進歩、それが今後の世界の本当の進歩というものであろう。 1974年 67歳

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