見出し画像

実際に訪れたから知る事で感謝 横浜市磯子区 浄土宗東方山薬王寺 私の百寺巡礼71

12/25(日)は、磯子区の寺社仏閣を歩き廻ったのだが、沢山廻った神社は全てが無人であった。
そんな中、こちらのお寺の住職には、快く御朱印を頂き、磯子区周辺の事についても教えていただいた。


薬王寺の開創は、鎌倉末期の元弘三年(一三三三年)この地、矢部野村に建立されたと伝えられ、鶴慶等大和尚(永正一六年入寂)が中興開山となった後、元禄の世、武州・深川・霊岸寺の沙門・梅山が再び中興を発願して浄土宗に改宗した。その後、明治初期より港南・正覚寺の末寺となって現在に至り、平成六年五月に本堂が再建された。
当山の本尊は、「薬師三尊」と呼ばれる薬師如来(慈覚大師作)と日光・月光菩薩及び守護神の十二神将を中心に奉じ、その「奥の院」は、古来より『鉈彫・朝日薬師』と呼び称された薬師如来(行基作)であり、さらには、阿弥陀如来、地蔵菩薩、愛染明王、善導・法然両大師が奉られている。
当山所蔵の『薬王寺奥之院朝日薬師如来略縁起』によれば、奈良朝・七三〇年頃、全国に疫病が蔓延し、聖武天皇から懇願された行基は、難病平癒祈願の最中、東方に輝く朝日の中から薬師如来の真形を観じ、霊水から三尺二寸の立像を刻み、奈良大仏・東大寺に奉じて祈願したところ発願が叶ったという。その後、建久六年(一一九五年)病を罹った源頼朝が奈良大仏殿の再建落慶法要に際し、朝日薬師に祈願して平癒した。その霊験を得たため妻・政子に命じ、お薬師を鎌倉にお迎えした。ところが、元弘三年(一三三三年)の新田義貞による鎌倉攻略の戦火を逃れ、矢部野村の元薬師山の薬師面(現在の洋光台北公園)に安置された。時下り、幾多の難儀に出合って田中村に奉じられたが、再び開創の地である矢部野に戻り、漸く念願叶って当山に奉安された。
「本尊薬師如来略縁起」によると、天台宗開祖・伝教大師の弟子・円仁(慈覚大師)が常和三年(八三六年)に遣唐使となって入唐する際、念持仏として二尺六寸五分の薬師如来座像を刻んだ。留学中、様々な災難に出合っても救われて仏法の奥義を会得する大願が成就できたという。その後、円仁と行と共にしたお薬師像は、元亀二年(一五七一年)に織田信長の比叡山・延暦寺攻めを逃れ、伊勢(岡本城主・奥田氏所蔵)から海を渡って、武州・深川・霊岸寺(浄土宗)の沙門・梅山が自ら背負い当山の本尊として奉安し、現在に至っている。(境内掲示より)

境内の内にも外にも、お地蔵様!の印象が強い。


頂いた御朱印に「矢部野」とあったので、住職に尋ねると、
「今は洋光台という地名であるが、昔はこの辺りは矢部野という地名であった。矢部野を守る観音様である」
とのことであった。

Googleで検索してもわからない事を知る事が出来るのも、実際に自分の足で歩き(京急線だと自宅から乗り換えがない為、屛風浦駅から歩いたのだ)、そこで出会った方に聴いたからだと知る。
本当に感謝である。

浄土宗東方山薬王寺
横浜市磯子区洋光台3-12-3
JR洋光台駅より徒歩5分


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?