鑑真和上の想い深く 奈良市 律宗総本山唐招提寺 私の百寺巡礼290
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。開基(創立者)は唐出身の僧鑑真[1]である。鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。「唐律招提」とは「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。
早朝、開門前に奈良駅からバスで到着した。
時間が早い為、周囲を見学。
本堂は中国的だなと感じた。やはり、そこは鑑真和上さまのお寺ゆえであろうか。鑑真和上は、ここ唐招提寺で亡くなられている。
売店もかなり充実していた。鑑真和上が持ち込んだという味噌やら、お茶やら。ああ、最終日。帰る直前ではなく、前日に来て買い物してホテルから荷物で送ればよかったかな、と思うのであった。
これこれ。友人の分と自分のと購入。
日本に仏教を伝えようとした鑑真和上の香りを感じる売店だ。
五木寛之先生の本から一部紹介したい。
唐招提寺は「鑑真和上」のお寺である。
鑑真の業績については教科書にも紹介されている。たいていの日本人は、一度は彼の名前を聞いたことがあるはずだ。
鑑真以外にも異国から来た僧は少なくない。しかし、彼ほど日本人に崇敬された人は、他にいないだろう。唐招提寺には鑑真の墓所があるが、広くて立派なものだ。
古代の伽藍が今日まで伝えられてきた陰には、古人の地道な努力があった。そうして維持されてきたものを、これから未来へと伝えていくのは、やはり現代人に課せられた責務だろう。
唐招提寺は、鑑真の遺徳をしのぶ人々の手で守られてきた。そして、古い伽藍とともに鑑真の精神も伝えられていく。お寺というものは、そうやって命をながらえていく。
古来宗教というものは。宗教であると同時に一大総合文化だったといえる
だろう。
医学も、建築も、音楽も、文芸も、思想哲学も、ファッションも、碁や、書や、尺八も、仏教と一体となって渡来したといってもいい。もちろん、料理や食材もである。
鑑真緒来日が、私たちにそれを具体的に教えてくれる。彼は驚くほど多彩な品々を、日本に持参したらしいのだ。
食料品としては、牛蘇(ヨーグルト)、幹胡煎(ゴマ煎餅)、豆鼓(味噌)、捻頭(ドーナツ)などがある。また、薬品の中には、糖蜜、蔗糖(砂糖)、胡椒などもあった。日本に味噌を伝えたのが鑑真だった、というのは初耳だった。それまでの日本には、味噌汁もなかったことになる。
物ばかりではない。この時、鑑真に同行した僧は17人、それ以外に画師や彫刻家や刺繍工や石碑工なども含めて185人の大集団だった。
日本に着いた鑑真は、聖武太上天皇、孝謙天皇をはじめとする440人あまりに、東大寺で授戒する。そして、律を研究するための寺を創建した。それが唐招提寺である。
今もなお唐招提寺では、厳しい戒律が守られていると聞く。そして、鑑真の像は弟子たちをずっと静かに見守り続けている。
律宗総本山唐招提寺
奈良県奈良市五条町13−46
JR奈良駅より。奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」下車。
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