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大草原の小さな家の旅~読書記録65~

1993年に発行された服部奈美さんの「ローラの故郷を巡る旅」のエッセイ。

服部奈美さんは、作家、ジャーナリスト、翻訳家などではない、あくまでも、1人のローラファンである為、こちらの本。続く「大草原の小さな家と自然」の2冊しか本は出されていない。年齢や出身校なども不明である。


この物語は、アメリカの開拓精神、フロンティアスピリットを描いているのだが、白人の側から観た面しか描かれていない。
服部さんは、その点を強く主張されている。

開拓時代は、インディアン(アメリカ先住民)の抑圧と虐殺の時代であった。
小さな家の物語はワイルダーの自伝的小説で、物語全体を貫いている自由と独立の精神は、彼女の子ども時代の経験に裏付けされている。だが、その生活はインディアンの生活の犠牲の上に成り立ったものであり、そこから得た自由と独立は、インディアンの自由と独立に相反するものであった。
ローラの母は、インディアンを酷く嫌う人として描かれているが、おそらく、母さんを用いて、当時の西部の女性を描こうとしたのであろう。

小さな家の物語は、戦後」GHQによって紹介された。マッカーサーは
「ワイルダーの作品は、アメリカの民主的な生活信条を鮮やかに描いているので、日本の学校教育の為に、出版を奨励した」
と言っている。
その民主主義とは、白豪主義によるものではないのか?


ローラは、あるエッセイで、こんな風に語っている。
「父と母が示してくれたものは、私が手本にしようとした何かだったのです。失敗したり、反対したりしながらも、羅針盤の針が北極星をさすように、いつも両親のもとに帰っていくのです。
幼い頃、家庭から受ける影響ほど大切なものはありません。それは父と母から子供に伝えれられていく財産なのです」
目の見えなくなった長女メアリーは不平がましいことなど、一言も言いはしませんでした。神が善であることがわかっていたからです。神が善であることは誰でも知っていることです。けれども、メアリーには、何か特別な方法でそのことがわかっていました。知っていたのではなく、心にわかっていたのです。メアリーは光を失った運命を、神の御心として素直に受け止めていました。

ある年の独立記念日の日、ローラは、こんな考えが湧きおこった。
「神こそ、アメリカの王である。アメリカ人は自由だ。自由とは、誰かに服従するのではなく、自分の良心に従って生きることだ。自分でいい人間になるということが、自由であるということなのだ。わたしたちには、大自然の法則と大自然の神の法則によって、生きる事、自由であることへの権利が与えられている。神の法則こそ、自由の権利を与えてくれる唯一の法則だ。だから私たちは、神の法則を守らねばならないのだ」

アメリカ人が、この物語を歴史と言う時、2つの意味を含んでいる。1つは、あの物語が開拓時代の生活や出来事をつぶさに伝えているという事。もう1つは、全作品を貫いている開拓精神が、アメリカ人の精神的な根源を表しているという意味だ。
自由と独立に裏付けされた開拓精神が、ローラの言う「目に見えるものの裏にあるもの」であり、「今のアメリカを作ったもの」であり、彼女の作品の糧となっていうことは言うまでもない。
「開拓精神とはユーモアと明るさ」とローラは言っている。

1970年代にアメリカでテレビドラマ化され、日本ではNHKでも放映されたので、そこから「大草原の小さな家」を知った人は多いと思う。
だが、ワイルダー協会の人は、「テレビドラマは原作とは全く違う」という。


違うものではあるが、どちらにも共通しているのは「家族の在り方」だ。

服部さんの考え方に学ぶものが多くあった。

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