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人はなぜ宗教を必要とするのか~読書記録312~

1999年、明治学院大学名誉教授・宗教学者の阿満 利麿(あま としまろ)先生によって書かれた書。

1996年に出版された「日本人はなぜ無宗教なのか」の続編とも言える。

宗教なんてインチキだ、騙されるのは弱い人間だからだ―「無宗教」を標榜する日本人は、たいていそう考える。しかし、そんな「無宗教」者も、「本当の生き方」を真剣に模索しはじめたとき、また、人の死など身にあまる不条理を納得したいと願ったとき、無宗教ではいられなくなってくるのではないだろうか。宗教に対する誤解にひとつずつ答え、そもそも宗教とはどういうものなのかを説き、「無宗教」から「信仰」へと踏みだす道すじを平易に語っていく一冊。


私の固定観念を破ってくれるべき本でもあった。
大学の教授をされている宗教学者なんかは、無神論者だろう。そんな思い込みがあったわけだ。
どこの大学の先生などとは言えないが。少し、左に寄った意見が多いなと。

「無宗教」が近代日本の宗教政策と深い関係にあるということです。よく知られているように、日本は近代の出発点において、京都に忘れられたように存在していた天皇をわざわざひっぱりだし。天皇が古代神話に由来する「現人神」であることをあらためて強調した上で、日本国を支配する絶対者として位置づけ、その崇拝を国民に強要することによって、新しい国家のまとまりを表現しようとしました。
また、天皇崇拝のための新しい神道は、憲法の「信教の自由」に抵触しないように、「宗教にあらず」と主張されました。そして、キリスト教以外の宗教に対しても、天皇崇拝を否定するような教義を持つような宗教は、厳しく弾圧する政策がとられてきたのです。
その結果、人々は宗教と言う言葉が、キリスト教以外の仏教や新宗教を含むようになっても、どこかに警戒心を持つようになり、宗教には距離を置くようになったのです。「無宗教」と言って済ましておく方が、無難だと考えられたわけです。(本書より)

阿満先生も主張されているが、明治維新の際に、今まで京都で静かに過ごされていた天皇を新しい政府が表に出し、国家を統一しようとしたのは事実だ。キリスト教の先生や左系の方らも言う。更に、終戦後、「神道は宗教ではない」と言う建前を掲げ、国家神道として、かなり偏った神主もいるのも事実だ。実際に御会いした神主さんではいないが、ネットの匿名神主さんは、かなり怖い方というか、近寄ったら危ない方はいる。

科学が発達したから宗教は要らない。確かに近代化が進み、日本以外の国でもそうなっただろう。フランス、ドイツなど、教会に行かない若者も増えているようだし。
けれども、科学的だから正しい、科学的ではないから違う。で、人は納得するのだろうか?

結論から言うと、著者は「無宗教と言いきらないで、宗教を持つ」方法を説いている。
著者が浄土真宗寺院の家に生まれたから、浄土真宗だけを勧めているわけではない。

法然上人は「疑いながらも念仏すれば、往生すとも言はれけり。これもまた尊し。」と言われた。

現代は社会も変わってきている。ムラ社会もなくなっている。いつまでも「自然発生宗教」「無宗教」と言わず。
科学的なもののみが良い。の考えも捨て、何らかの宗教を持つことを著者は勧めているのだ。


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