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都会を静かに見守る弘法大師様 中央区東日本橋 真言宗智山派川崎大師東京別院薬研堀不動院 私の百寺巡礼147
日曜日の早朝だったからだろうか。
東日本橋と言えば激込みのイメージがあるのだが、私が訪れた時の東日本橋界隈は人もまばらであった。
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地下鉄の駅を出る時には、出口を間違えないこと。
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B3以外の出口に行ったら目的地に辿り着けないであろう。
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駅を出ると、旗が並んでいる。おおお、わかりやすい。感謝。
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ということで、目的地である、川崎大師分院薬研堀不動院に到着。
御本尊・不動明王尊像は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)に真言宗中興の祖と仰がれる興教大師・覚鑁(かくばん)上人が、43歳の厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻され、紀州・根来寺(ねごろじ)に安置されたものです。
その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都(だいいんそうず)はそのご尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、天正19年(1591)、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。
その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至っています。また、順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。
勉強不足で申しわけない。真言宗と言うと、あまりにも弘法大師空海がカリスマ過ぎて、他の人の名前が出て来ないのだ。
真言宗のページで調べてみた。
興教大師覚鑁は、嘉保2(1095)年、現在の佐賀県鹿島市にお生まれになりました。20歳の時に高野山に登られた興教大師は、鳥羽上皇の支援を受けて高野山を整備、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、「新義」といわれる教学を確立しました。これが真言宗中興の祖と呼ばれるゆえんです。その後、高野山の座主にまでなりますが、権力の争いを避けるため、その座を降り、根来山(和歌山県)に移られます。この地の整備をすすめていましたが、3年後に49歳で入滅されました。(成田山新勝寺のページより)
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他に参拝の人はおられずに、弘法大師様と同行二人だー。やったー!
という状況で、ゆっくりと参拝出来た。
都会の狭い土地事情もあるのだろうが、こじんまりしている。
けれども、そこも又良い。
朝から感謝だった。
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真言宗智山派川崎大師分院薬研堀不動院
東京都中央区東日本橋2-6-8
都営浅草線B3出口から徒歩3分
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