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近場の修行場? 川崎市麻生区 真言宗豊山派星宿山蓮華蔵院王禅寺 私の百寺巡礼221


一歩足を踏み入れると旧い時代に行ってしまったかのような山の中。

王禅寺は、星宿山王禅寺と称し、真言宗豊山派にて、延喜21年(921年)に高野山三世無空上人が開山。関東の高野山と呼ばれていた。周囲には大きな樹木が茂り、この地を愛した北原白秋の歌碑がある。前庭には、樹齢450年と伝えられる禅寺丸柿の原木がある。これは、「柿生」という地名・駅名の由来となったといわれている。平成19年(2007年)に国指定の登録記念物になり、文化庁から贈られた登録証銘板が埋め込まれた記念碑が柿生禅寺丸柿保存会により設置された。また、川崎市選定「まちの樹50選」、「ふるさと麻生八景」にも選ばれている。創建の正確な年代は不明である。慶安3年(1650年)成立の縁起(『聖観世音菩薩略縁起』)によれば、天平宝字元年(757年)、観音菩薩が孝謙天皇の夢枕に現れ「武蔵国の光ヶ谷戸という所に居る」と言われ、探索を命じられた結果、発見されたという。孝謙天皇の勅命で武蔵国都筑郡二本松で発見(光ヶ谷など異説あり)された一寸八分の聖観音(しょうかんのん)である金の像を祀り堂宇を創建したという。寺伝によれば延喜17年(917年)高野山の三世無空上人が、醍醐天皇から「王禅寺」の寺号(王の命じた仏教を修行するに適した場所としての寺という意味)を賜り、同地に改めて創建され関東の高野山と呼せられ、東国鎮護の勅願寺となる。延喜21年(921年)高野山の熊空により真言宗の寺となるという。建保2年(1214年)に禅寺丸-柿が発見された。等海で王禅寺の中興の祖(横浜市金沢区の称名寺の塔頭延命院の住僧)は山中で寺院再建の用材捜索中に、等海が自生している「禅寺丸柿」を発見し、近隣の農家にも栽培を広めたとされる。元弘3年(1333年) 鎌倉攻めの新田義貞の戦乱の兵火を被り焼失。建徳元/応安3年(1370年)再興された。最盛期には、真言密教を修行する七堂伽藍(当時を偲ぶ絵図が残っていて、境内には多くの塔頭が示されている)を持つ学問寺として檀家を持たず、近隣の末寺36ヵ寺の本寺(大寺)として、末寺からの上納により運営されていた。草競馬場の跡が一部現存し地名として、今でも地元の人の間で馬場と呼ばれている。また、明治維新以前は、神仏混淆であった。一時期は、鎌倉八幡宮と八幡宮寺(明治の廃仏毀釈令により廃寺となる)の別当(総支配人)として掌握していた。鎌倉時代、将軍より多くの寺領を寄進され、戦国時代には北条氏直から、銀三十貫を安堵された。さらに江戸時代幕府より三十石の朱印与えられた。徳川幕府の歴代の将軍(徳川家康を始めとし、後の13人の将軍)の位牌を奉り、将軍家より葵の御紋の使用を与えられた。


こちらの仁王門がなかなか素晴らしい。
元々は、修行の為のお寺であったようだ。その為か、自然に溢れた場所である。


川崎市って、こんなに山深い場所だったか?と、新鮮な気持ちになるのだった。


見よ!この素晴らしい木彫りを!
住職夫人に聞くと、なんでも仙台市におられる職人さんがチームを組んで泊まり込み、作業をしてくださったらしいのだ。
岩手県平泉の毛越寺の本堂修繕なども手掛けたらしい。
やはり、プロの技は違うね~。


薬師堂
南無大師遍照金剛


この写真の数々からも自然豊かな場所であることがおわかり頂けると思う。


こちらは参道に自生しているセリだ。近所に住まれる檀家さんと一緒に少し頂いた。


セリは粥にした。美味。もっとあっても良かったかな。


お寺で暮らす人懐っこい猫たちも、目の前にある王禅寺公園の桜も素晴らしかった。

詳しくは、こちらで。

ちなみに、王禅寺は、この辺りの地名でもある。
真言宗豊山派ということで、住職夫人とは、そちらの話で盛り上がるのであった。
ブーブー文句を言っていたが、来て良かった。そう思うのであった。

真言宗豊山派星宿山蓮華蔵院王禅寺
川崎市麻生区王禅寺940
東急線たまプラーザ駅より柿02
小田急線「柿生」駅南口より柿01,04,溝10
「新百 合ヶ丘」駅より新23,25系統バス「王禅寺東3丁目」 下車 徒歩3分


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