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善の根拠~読書記録392~

善の根拠 南直哉 2014年


「なぜ人を殺してはいけないのですか?」──従来は当たり前だと思われていたことにまで、その理由を説明しなければならない時代。「常識」の底が抜け、すべてのものごとに、根拠がなくなってしまった時代。「善きこと」に対する信頼が、すっかり失われてしまった時代──そんな現代だからこそ、今一度、「よいこと」すなわち「善」とは何なのか、その根拠は何なのかを考えてみることが必要とされているのではないでしょうか? 人間という、限界あるか弱い存在の内に、善を求める態度、すなわち本当の意味での「倫理」が立ち上がるために必要な条件は何か? 本書は、恐山を主な舞台にして積極的な活動を展開する気鋭の禅僧が、仏教者としての立場から、現代における難問中の難問に果敢に挑む問題作です。根拠なき不毛の時代にこそ必読!
悪について間違いなく言えることは、善悪が人間にしか必要とされないことである。つまり、善悪の区別は、人間の在り方そのものに関わる問題なのである。僧侶にはこれを論じる責任がある。恐山の禅僧が現代最大の難問に挑む。

南直哉
1958年、長野県生まれ。禅僧。青森県恐山菩提寺院代(山主代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度。同年から曹洞宗・永平寺で約二〇年の修行生活をおくる。


著者が冒頭で述べているが、これは仏教書ではない。その通りだ。
哲学と言ったほうがいいと思う。
第一部は、仏教を深く知った人でないと難しい。それこそ得度して法名を得ているような人たちだ。私にはかなり難解だった。仏教の経典自体、難しい。
第二部は、禅問答のようで面白く読み進めることが出来た。
かつて、臨済宗の修行僧らはこのように問答をしたのだろう、とイメージした。

この本でたびたび出て来るのが「自己」と「他者」「共同体」。
善とは、その関係の中で変わるものなのだろう。

たびたび思うのだが、お寺の家に生まれて何となく後を継いでいる人よりも、南僧侶や円覚寺の横田南嶺老師のように一般の家庭に生まれて求めて仏道に入った方の方が心の奥底に響いてくるなと思った。
お寺の家に生まれた人に「何故、自殺はダメなの?」と聞いても、「そういう戒だから」で終わりだ。キリスト教の家庭でもそうだが。
何故、自殺はダメなのか?とことん、考え抜くと哲学になってしまうのだろうが、私はこれからも考え続けるだろう。


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