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消された信仰 広野真嗣~読書記録310~

著者は1975年生まれ。2002年に猪瀬直樹事務所に入所したフリージャーナリスト。
2018年ユネスコが長崎県の潜伏キリシタン遺産を世界遺産とした時期に発行された書である。


著者は「生月島」という隠れキリシタンの住む島を取材した。



書物のない時代であったからか、こちらの隠れキリシタンと呼ばれる人の祈りは口頭でカタカナでポルトガル語(ザビエルの出身地)を書いたもののようだ。
又、今のバチカンからすると、この島民のキリシタン信仰は独特的なものであり、バチカンの認めるものとは離れているらしい。
遠藤周作は「沈黙」の中で生月島の信仰を「得体の知れぬもの」と表現している。
「隠れ切支丹は過ぎ去った時代のある残骸にしかすぎぬ。自分たちだけの秘密組織を作って表は:仏教徒などを装い、仲間内だけでその暗い信仰を伝えあってきたのだ」(190年遠藤周作エッセイより)
キリスト教を含む一神教は、多宗派を凌駕してその歴史ごと「現在の自分の正義」で塗りつぶしてしまう。豊臣秀吉のバテレン追放令の背景にはこのようなものもあった。
多宗派からカトリックのもとに復帰させることをカトリックの用語で「帰正」と表現する。正当なのは唯一のカトリック教会である、という意味が込められている。
アメリカ聖公会(聖路加がそうである)の熱烈な信者であったマッカーサーは「日本をキリスト教国にする」という特別な使命感にを持っていた。
隠れ切支丹について。。。
島の人たちは宣教師が持っているメダイのようなものが欲しかったから。日本人の宗教心理にはそうしたよくわからない秘密めいたものをありがたがる傾向があって、遠い国から来た神様のものだからより効き目があるように思えた。「よくわからない秘密めいたものをありがたがる」のは日本人だけではない。世界のカトリック信者がそうである。1962年から1965年に開かれたバチカン公会議までは、ミサはラテン語で行われていた。一部の教職者以外は祈りや聖書や説教をわからないでいた。

この書を読んでの感想であるが、生月島及び長崎県の隠れキリシタンと呼ばれる人たちは何を信じていたのだろうか?やみくもに「オラショ」という祈りをわからないまま唱えていたのであるまいか。

それは、私がここ数年、カトリック教会で感じていた疑問につながってくる。不思議のメダイなどもらってもちっとも有難いとも思わなかった。聖路加国際病院は聖公会の病院である。そんな偶像など余計なお世話なのだ。又、アベマリアの祈りやロザリオなども私には納得がいかなかった。聖書のどこにあるのかわからなかったからだ。
要するに、16世紀以降の長崎県の信者が意味もわからずに有難がったように、同じ祈りを唱えているのではないか。そこにはキリストも信者もいないのだな、と思えてならない。

ちなみに、著者は中学生の時に、プロテスタントの洗礼を受けている。

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