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長生き地獄???

天理教の教祖は、人は115歳まで生きる!と長生き幸せを説いたらしい。
亡くなったとは表現せずに、現世での姿を隠した。今なお存在している、と教団のホームページにはある。


そこで考えた。
ただたんに長生きするって幸せなんかな?と。

50代で老人ホームに入った友人は要介護5だという。彼の顧問弁護士は、彼が90歳まで生きる計算して資産管理をしている。自分では銀行に行くことすら出来ないからだそうだ。
見舞いに行った友人が言うには、広い個室で、外も中も綺麗で、洗濯、掃除なども職員がしてくれる。至れり尽くせりの環境なのだという。
もちろん、年齢的なこともあるが、全額自己負担である。相当な金額である。今までの祖先の残した資産をここで終わらせる。そうなるのだろう。
仕事、身の回りの自分の事はおろか、ホームの庭も散歩しない。
90歳までって。。。。確かに、現代の医学の発達、栄養や衛生面の変化から身体の弱った人でもそのくらい生きられるのだろう。

だがしかし・・・何十年もその状態で、それって幸せなんだろうか?生きている実感はあるのだろうか?
ちょっと具合が悪い事は人間誰しもある。けれども、「今日は洗濯出来た」
「歩いてリュックを背負って買い物に行けた」「図書館に行って本を沢山借りて読んだ」などなど、お金はかからないなりに、生きているという実感。それは主体的なものであると思う。
つまり!
私が言いたいのは、お金がどれくらいかかるかはおいて、やりたい事があるかどうかだ。それから、どうしてもやらねばならない事があるかも、だ。
お金が有り余っているならともかく、一般人は自分で掃除、洗濯をせねばならぬ。

今の日本やアメリカなら、お金さえあれば、かなりの長生きが出来るであろう。 ただ、胃ろうとか、全身スパゲッティ状態とも言われているチューブ挿入で意識がないけれども生きている状態などもある。
そんな姿を観ると私は思うのだ。

「この人の魂は今どこなんだろう」と。
もう地球上にはなく、イエス様の所だったり、お釈迦様の所だったり、地獄絵図に出て来る所にいたり・・・

しかし、この友人の場合は、元々がお金に余裕のある人なのだ。
家は大田区の良い土地に先祖の代から。1人っ子であり、独身貴族であった。(死語?)

彼の事はおいておいて、お金にそれほど余裕のない人間が突然に要介護状態になったら、介護保険適用のホームが空くまで、自宅で寝たきり。訪問看護さん、訪問ヘルパーさんに来てもらい、最低限必要な事をケアマネージャーが決めるであろう。

私は、これに関して文句を言うつもりはない。
1つだけ言うとしたら、自分の願いとしては「寿命=健康寿命」でありたい。と思うだけだ。そして、やりたい事、やらなければならない事に溢れた人生でありたい。
大した事でなくてもいいのだ。
歩数計を付けて、足首に重りをつけて歩く、とか、毎日本を読む、だの。
或いは、掃除、買い物だの。
全てを他人にして頂くのは幸せだが、毎日ではどうなのだろう。
例えば、美容院でのシャンプー。あれは気持ちいい。自分でするのではなく、プロに「痒い所ありませんか?」など聞かれて丁寧にしてもらう。
毎日だと幸せを感じないかもしれない。当たり前と思うのだろう。

本当に申し訳ないのだが、私は冷たい人間だから、友人の求めに100%応じる事は出来ない。「寂しい、寂しい」「誰か来て」と、頻繁にラインメールを送っているが、部屋にWi-Fi回線のパソコンがあるなら、You tubeの動画やらインスタグラムなどに楽しみを求めたらどうだろうかと思ってしまう。

結論は出ないかもしれない。

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