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弱者とはだれか~読書記録109~

1999年に発行された評論家・小浜逸郎先生のエッセイ。

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小浜逸郎さんは昭和22年生まれの、いわゆる「団塊世代」。
作家の三田誠広さんと同学年だ。

辛口で言いたいことをビシッと言う。そこに小浜逸郎氏の魅力はあるのだと思う。
出て来る弱者は、障害者(小浜逸郎氏の使った漢字を用いたい)、部落出身者、在日であったりする。

共感するところが大いにあった。
例えば、現在のテレビなどに於ける「禁止用語」。
ちょっと芸人さんがその場のノリで軽く言ったところ、アナウンサーから
「ただいま不適切な発言があり申し訳ありませんでした」
の謝罪があったりする。
「百姓」などの言葉も差別用語とされテレビ等では「農業従事者」とされているらしい。
そういえば、「百姓」とは言わなくなったな。けれども、本当に差別用語なんだろうか?
悪意を持って、「キチガイ」だの「水飲み水百姓」だの、1対1の場で言う場合には傷つくが、そんなに騒ぐものなのだろうか?

又、この本に出て来る乙武洋匡氏の本の話。
1998年に「五体不満足」が出版され、小浜逸郎氏のこの本は1999年に出版されているので、タイムリーである。
「明るい障害者」として描かれているが、そこに感じる違和感。

「またこの本のもくろみは、四肢がないという障害の衝撃力で読者の「対・障碍者意識:」を引きつけ、それを利用して「障害者問題」一般へのまなざしを改革しようとというところにあったはずだ。ところがある部分ではむしろ、本人の優れた知的能力や強い資質と個性を際立たせるものとしてだけ作用し、結果として他の種類の障害の持ち主(例えば知的障害、重い情緒障害、重複障害)や、凡庸でもっと弱い資質や内向的な性格の持ち主だったらこうはいかないという印象を強めるものになっている」(本書より)

そうなのだ。私がずっと抱いた違和感。本当に彼の母親は「可愛い」だけしか生まれた彼を見て思わなかったのだろうか?自分の場合だったらと考えて、「どうしよう」と思ってしまう自分がダメなような気分になるのだ。
案外、障害を持つ子供を抱えた親が本音をネットで呟けないのも現代かもしれない。
「子供の手がかかるから買い物にも行けない」
こんな事をツイートしたら炎上してしまう。イヤイヤ。本音も吐けないのか?

実際、この本が出されてから20数年。離婚した元妻の女性は、生活の大変さを語っていた。
朝、ベッドに寝ていても本人の意志で起き上がることが出来ないから、起こして着替えをさせて。。。と。
離婚した後は実母が来られたと。
綺麗ごとを言うのもいいが、こんな大変な、涙話も書いて、知ってもらったほうが良かったな。は、私個人の意見だ。

部落出身者に対しても国からの支援金など本当に必要なのか?
本人が隠して、努力したら、大学、就職と出来る時代であるのに。

在日問題にしてもしかり。何故か、騒げば得をする人がいる?と思えてならない。
日本の学校に行き、一般企業で働いている方は沢山いるのだ。

ああああ。きっと私も「残酷な人間」になってしまうのだろう。

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