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排除するのは人である

数年前、私は小学校中退の息子を連れて、日本各地の男子修道院を廻っていた。就職は無理だろうし、結婚なんか絶対に出来ないし、1人で暮らすとしたらどうなるのだろう?の焦りからだった。
その時には、カトリック教会神父たちとの関係は良かったし、本人も教会に楽しく通っていたのだった。
棕櫚の主日の意味も、ただパンを食べに来るだけのカトリック教徒の大人たちよりも理解していた。

そして、地方の修道院や教会に行った記録を教会広報に載せていただいた。私も息子も純粋にイエス様の像や十字架を見上げ、思いを綴っていただけだ。

その教会の広報がWebで誰でも見られる、とは私は全く知らないでいた。それを見た東京の敬虔なカトリック教徒の女性から「修道院にぶち込めば?」「ニートにならないで済むよ」「ゲラゲラ」と言われ、腹を立てていた。
彼女は、私が籍を置いていた教会に何年間も私の悪口を電話してきていた人だった。司祭達には本当に申し訳ないことをしてしまった、という思いは尽きない。

私が腹を立てたのは、その方が毎週聖餐式でパンを頂く自称敬虔なカトリック教徒であるから。クリスチャンでない人間が「修道院にぶち込め!」と言うのなら何とも感じない。「あ、そ」で終わり。
修道院の意味を知っているし、ブラザーやシスターを毎週見ている人間の言うセリフなのか?と。

彼女は教会では評判は良いらしい。

私は、理不尽さを感じてならなかった。ただ形式的に聖餐式のパンを食べているだけの人間。必死にイエス様を求めて、異端審問を受け、横浜教区(神奈川県、静岡県、山梨県、長野県)の教会では聖餐停止、聖堂出入り禁止となっている自分。
軽井沢のカトリック教会に行った時に、やはり日本人司祭(山手で色々とあった人だった。。。)から聖堂出入り禁止を言われ、司教の偉さをしみじみと感じるのであった。長野県にまで、司教とゴッドマザー(私の代母。今は電話もラインも拒否されている。)の指示が来ていたのか。。。

神様って、どうして必死にイエスキリストの救いを求める人間を排除して、パリサイ人みたいな人ばかりの教会にするんだろう。理不尽だよ、納得いかない。


けれども、ここ最近、関野牧師の動画を観て、聖書を開き、わかってきたこと。

「私を排除したのは人間だ。イエス様ではない」

カトリック教会では、パンを食べるだけで、聖書の味わい、自分で考え、他者と分かち合うことなどなかった。形だけだった。だから、私も、又、周りの人たちもわかっていなかった事が沢山あったのだ。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。

詩篇130

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