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仏教入門~読書記録367~

仏教入門 南直哉 2019年

普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。

南/直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約二〇年修行生活をおくり、05年より恐山へ。

私が南住職を好きなのは、お寺の家に生まれた僧侶とは違い、世間一般の人の心がわかっているところである。
お寺の家に生まれた僧侶や娘などは、下手に質問したりすると「そんなのも知らないの?常識じゃないの?」と返される。

宗教とは何か。何故、自殺してはいけないのか?
そいうことを聴いてみたとて、納得のいく答えなんぞ帰ってはこないのだ。

人間は、どういうわけか自分が過去に生まれ、将来死ぬことについて、それは「事実である」「事実になる」と確信をもつ。ところが、それがどいうことなのか、またなぜそうなるのか、理由や原因はまったくわからない。
(本書より)

人が何故生まれ、何故死ぬのか。人間にはわからない。
南住職は、「まるで疑いを持たない人は、信じることはできない」と書いている。
この点が、仏教は哲学だな、と私が感じる点だ。
「ただ信ぜよ!」の他の宗教とは違うと思う。

無明とは、根本的な無知の事だという。
無明の自覚は、悟りのスタート地点なのだ。
人は悩み、苦しみ、己の弱さ、無知を知る。南住職の本にはいつも教えられる。


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