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死と生~読書記録274~

2018年、京都大学名誉教授である佐伯啓思先生による著。

人間究極の謎に迫る!
「死」と日本人、そこから探り出されたものとは?

「死」。それは古今東西、あらゆる思想家、宗教家が向きあってきた大問題である。
「死ぬ」とはどういうことなのか。「あの世」はあるのか。死後に何が起きるのか。
「自分」がいなくなったら、「世界」はどう認識されるのか――。
先人たちは「死」をどう考えてきたのか、宗教は「死」をどう捉えているのかを踏まえながら、人間にとって最大の謎を、稀代の思想家が柔らかな筆致で徹底的に追究する。
超高齢化社会で静かに死ぬための心構えを示す、唯一無二の論考。

◎著者略歴
1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。
日本の経済学者、思想家。京都大学名誉教授。京都大学こころの未来研究センター特任教授。滋賀大学教授・京都大学教授等を歴任。共生文明学、現代文明論、現代社会論といった国際文明学、文明論を研究している。第4期文部科学省中央教育審議会委員を務めた。
(本の紹介より)


この本で著者が言いたい事は、日本人の死生観だろう。
仏教を軸にして、生病老死を考えている。
悲しいかな。現代の日本では、生があって、その後すぐに死ではなく、病、老が長いのだ。
そして、誰でも死ぬのだが体験談などない。死への恐怖というのは誰もがある。

60歳過ぎになって定年で仕事を辞め、いわば社会から放り出されて1人でいる、ということ。そして、そのままどのようにして死を迎えるか、ということ。1人で老い、死へ向かうこと。その最後の生をどう過ごすか、ということ。ある意味では、この人間の普遍的な問題に我々は、日々、誰もが改めて直面し、もはや背を向けることが出来なくなった、ということなのです。
なぜなら、繰り返しますが、死の瞬間まで、我々はずっと生の中にあり、しかもそれは、老いにせよ病にせよ、確実に我々の生を蝕み、ボロボロにし、少しずつそれを破壊してゆく種類のようなものだからです。恐ろしいのは、「死」ではなく「死にきれないこと」なのでしょう。我々を不安にさせるものは、もはや生とも呼べないような生を生きざるをえない、ということなのです。(本書より)

本書を読みながら、これは昭和の時代には考えられなかった話だなと思った。あの頃は、癌にかかると治療法が少なく、年老いて介護状態になっても先が見えた。つまり、寝たきりの状態は続かなかったのだ。今は、胃ろうやら、気管切開やらで、長生きできる。

佐伯啓思先生が師事された東京大学元教授の西部邁先生は、自死すべく決意していたと言う。実際にされた。西部先生の思想では、認知症や寝たきりになってまで長生きしたくない、があったのだろう。
けれども、そう思っても、自殺というのは体力、認知力がいる年齢でなければ出来ないものだ、と佐伯先生も言われる。

老人は集団自決を!と発言された立派な方もおられるが、自決って、杖をついてヨタヨタ歩く、風呂はデイサービスだけ、のような方が簡単に出来るものではない。


著者が言われていたが、死ぬのは独り。けれども、独りでは死ねない。(始末出来ない)と。誰かが片づけをしてくれない事には、なのだ。けれども、現代日本人の独身率の高さたるや。

佐伯啓思先生は、「宇宙の始まりはビッグバン。では、その前はどうなっていたか、気になって仕方ない」と書かれている。
実は、私も同じで、聖書にある、この世の創造。その前は?と不思議に思い、牧師や神父や役員に聴いて「不信仰だ」で終わっている。

佐伯先生が到達した思想は「無」である。生も死も「無」として捉えるのだ。
で、釈迦や法然や道元の話なども出てきたが、結局、佐伯啓思先生は、浄土真宗の親鸞聖人を尊敬し、その思想それなのだなと個人的に感じた。
佐伯啓思先生が何宗かは知らないが、日本人は浄土真宗が一番多いと言う。
そのまんま、努力せずとも、ありのままで良いからだろう。山で修行したり、念仏を唱えたりなどせずとも、既に救われている。

全てを受け入れて過ごすのみ、と思うのであった。


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