見出し画像

この山は神聖な地 滋賀県大津市 天台宗比叡山延暦寺 私の百寺巡礼97

比叡山延暦寺。最澄。日本史の教科書に出て来るので、中学生以上なら知識はあるだろう。

京阪線比叡山坂本駅からは、日吉大社参道沿いに小さなお寺が幾つかある。
参道をゆっくりと堪能しながら、日吉大社と日吉東照宮に参拝し、その後、ケーブルカーで比叡山に。


お母さーーーん!と叫びたくなるほどの急こう配をケーブルカーは走っていった。登りはまだしも、下りは運転手さん、怖くないのだろうか、とバカな事を考えるのは、世界で私だけだろう。

途中、もたて山駅から乗車される方もおられた。
なんでも紀貫之のお墓があるらしく。山登りしたい方にはお勧めしたい。
朝から忙しい私は行けなかったが。


比叡山に到着。ここからは10分もしないで延暦寺に到着する。


雪や

ということで、延暦寺入口に。
3月下旬まではシャトルバスは運休とのことで、東塔のみ参拝。
修行僧のように、急な山道をスピードを上げて走るか?
イヤイヤ。無理だ。

比叡山山中を走る五木寛之先生


なんと!!一番の楽しみにしていた根本中堂は改修工事中とな。
近くを通られた20代の僧侶に尋ねると、「完成はあと5年後」とのことであった。
「それまでボケないように、膝も痛くならないように頑張りますわ。ゴイゴイスー!」
と、お礼をいい、足腰の健康とボケない事を祈るのであった。

全ての建物は見事なものであった。
山全体に何かしら命が宿っているのを感じた。
樹、土、石、全てに命がある。

実は、この話を書く少し前に、過激なヴィーガンの女性の意見に疑問を感じていたのだった。
動物が可哀想、だから肉を食べない。菜食主義を貫く。と。
個人でやるにはそれでいいのだが、家畜業の人への嫌がらせに始まり、猫や動物好きな人が肉や魚を食べると攻撃をするといったことで。
それに何か疑問を感じてしまっていた。


う~ん。 なんだろう。この違和感。 私が知るヴィーガンって、キリスト教信者か影響を受けた人達。 人間が一番偉いの思想に反論して。 白か黒しかないのだ。まさに西洋的思想。
昔からの日本人の感覚だと、全ての生き物に命があるとなる。
植物、山、鉱物などもだ。
人間だけではなく、殆どの生物は何らかの命を犠牲にして生きている。 猫が好きー。と言っているが、猫は肉食だ。可愛いだけのペットではない。

これが本当の猫やーー。

ネズミが可哀想なのか? 私は田舎の農家育ちなので、猫はペットではなく、ネズミを捕る家畜と教えられた。 食肉用の魚や動物を供養する碑に旅の途中、亡くなった馬を供養する碑がある。


比叡山の歴史については、団体客の方たちに若い僧侶が説明しているのを聴いて納得していた。法然、親鸞、道元、栄西、日蓮・・・皆、この山で学んだのか。


広い山の中全てが聖地であり、そこには神社もあった。
麓にあった日吉大社を参拝したあとだったこともあるが、比叡山延暦寺と日吉大社の繋がりも感じていた。
やはり、神仏習合。それで良いのではないだろうか。

最澄の生まれたのは、この比叡山の麓の生源寺であったと言われている。
若き最澄がこの大きな山にこもり、最澄を慕い、若き修行僧が集まり、学びの場となる。素晴らしい聖地だと思いを馳せたのであった。


山の上から観える琵琶湖は又素晴らしい。

花粉舞う 琵琶湖を見下ろす 比叡山


麓の日吉大社から撮影。

そびえ立つ 神仏合うも 杉花粉

実を言うと、私自身は、実家が真言宗であり、とうに廃校になった山の中の小学校のメンバーは殆どが真言宗の檀家であった。
僧侶が幾つもの寺を掛け持ちしていた事もあるのだが。
色々とあり、学生時代にキリスト教に惹かれたこともあり。
だから、最澄の事については全くと言っていいほど知らないのだ。
中学の歴史の教科書に出て来る程度は知っているが。
だから、今回の旅で新たに得た事がある。


そして、ここからは、五木寛之先生の本を紹介したい。


比叡山延暦寺へは、琵琶湖畔の坂本からケーブルカーでのぼるか、京都側の八瀬からケーブルカーかバスや車で登るのが一般的だ。
こうした交通手段がなかった時代は、人影も少なく、静寂に包まれていたらしい。
昔の人たちが延暦寺に行くには、自分のあしで山を登るしかなかった。雨や雪が降ったりしていたら、大変な難行苦行だったに違いない。
「山に入る」ということ。そては、日本人にとって古代から、特別な意味を持っていたのではないか。霊山というように、山には何か霊気がある。山岳霊場と呼ばれる場所は多い。
古代人は、山には山の神がいると信じていたのだろう。「山に霊がこもっている」という感覚は、こうして山中に身を置くと実感できる。
山や森にも霊が宿り、命があるという古代からの信仰。それはアニミズムだ。と近代では切り捨てられてきた。しかし、日本人は昔から山を拝み、樹木に注連縄(しめなわ)をはって信仰の対象にしてきたのだ。
ヨーロッパにおける登山は、人間が自然を征服するという事の証明だった。たとえ、アルプスのような峻険な山であっても、人間が知能と体力の限りを尽くせば制服出来る、というわけだ。人間の能力は偉大だ、と示すのが登山の意味だったと言えるだろう。
だからこそ、山頂に誇らしげに国旗などを立てる。あの国旗はまさしく、この山は人間に征服された、ということの表現だ。こうしたデモンストレーションを見ると、私はなんとなくいやな感じがしたものだった。
日本人の昔の登山はそうではない。富士登山なども、白装束に身をつつみ、「六根清浄」と声を出しながら登った。山に入っていくことで、その霊気を自分の中に吸収し、自分の命をリフレッシュする。それが山に登るということだったのである。
登山は宗教的な行為であって、高さや速さを競うスポーツのようなものではなかった。
日本では古来、まず山に小さな祠のようなものができ、そこに神社が出来、そのあとに仏教が入ってきて寺が建った。そのため。自然に神仏習合の形をとっていることが多い。この神仏習合ということも、私にとっては大変興味深いものだ。
比叡山では神と仏との関係はどうなっているのだろうか。
更に、山では様々な行が行われる。比叡山では、有名な「千日回峰行」などが今も行われている。
そうした行にはどのような意味があるのだろうか。

延暦寺はとにかく広い。というのも、この寺の境内は、滋賀と京都の県境にまたがる比叡山そのものだからだ。

私が特に興味を惹かれるのは、なぜ最澄は比叡山に入ったのか、ということである。
実は、最澄については、これまで少し誤解していたとも言える。
最澄はエリートで、最初から朝廷の保護を受けて、比叡山に立派な寺を建ててもらったとばかり思い込んでいた。延暦寺は貴族の寺で心の寺ではない、と言うイメージがあったのである。しかし、彼がエリートだったのだ間違いではないが、それ以外は私の勘違いだった。
幼い頃から優秀だった最澄は、12歳で近江国分寺の選抜試験に合格し、3年後には出家して得度する。さらに、19歳で東大寺の階段院で具足戒を授かっている。
ところが、そのエリートがそういうわけか、突然、約束された地位を途中で放棄してしまう。出世の道に背を向け、決然と反旗を翻したのである。
そして最澄は、当時は荒涼としていた比叡山に入る。19歳での決断であった。彼はそこでひたすら山林修行に励む。
のちに比叡山を下りていった人びとー法然、親鸞、栄西、道元、日蓮たちのことは、比較的よく知られている。けれども、最澄自身が当時の仏教界での出世を放棄して、人里離れた山に入ったことは、あまり知られてはいないのではないか。
当時の比叡山は、山岳修行の荒法師が集まるような荒涼たる場所だったらしい。そのなかで、最澄は今の延暦寺東塔の根本中堂がある場所に、ごく質素な草庵を作った。
それが、延暦寺の歴史の第一歩ということになる。
最澄が求めたのは、「生きとし生けるものは皆成仏できる」という大乗の教えだった。彼は「法華経」の中にそれを見出し、中国の隋の時代の天台大師智顗の教学に行きつく。

比叡山を下りてから法然は浄土宗を、親鸞は浄土真宗を、栄西は臨済宗を、道元は曹洞宗を、そして日蓮は日蓮宗をそれぞれ開いた。そして、広く民衆の間に仏教というものを広めていった。その母胎となったのが延暦寺だといえるだろう。
法然や親鸞たちが説いた諸仏教の前提は「どんなに愚かで弱い人間であっても、必ず救われる」という信念だった。そう考えると、鎌倉新仏教の根本にも、最澄の「生きとし生けるすべてものが成仏できる」という大乗仏教の思想があったのではなかろうか。
延暦寺を開いた最澄自身が、奈良の既存仏教界に対する反逆者だった。
その最澄の言葉で有名なものがある。

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人いわく、「径寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と。

彼が言う「国宝」とは、自分の持てる能力を謙虚に社会の為に生かし。日々そのために生かし、日々そのために努力して、それぞれの場で。「一隅を照らす」人のことだ。
つまり、特別な能力のある人間だけが「国の宝」なのではない。人間は一人ひとり誰もが大切な存在である、ということだ。
ここには最澄の思想がはっきりと表れているように思う。
伝教大師最澄は、弘法大師空海とよく比較して語られる。同時代に日本の仏教界に現れた二つの巨星といえる存在だけに。それも当然だろう。

空海と言う人には一種天才的なところがあって、孤立して空に高くそびえる高峰のような感じを受ける。それに対して、最澄と言う人は、自分の峰の左右に幾多の連峰を従えている印象がある。彼は長く連なる「最澄山脈」というものを作り上げた。
つまり、最澄が日本の仏教界の各宗派の土台というものを築いた、といってもいいのではないか。


延暦寺の梅山恵匡氏に先導して頂き、山中を歩く先生。かなりのスピードだ。

「生きとし生けるもの」というが、天台の思想では、命があるという意味だけでなく、石や土や山などにまで仏性があると考える。「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という言葉は、自然のすべてのもの、山も草も木も、けものも虫も仏性を持っているということだ。
自然の全ては人間にとって友であり、そこに尊い命がある。

千日回峰行は日吉大社も周る。
驚いたことに、神さまをお参りするのも目的だというのだ。日吉大社は比叡山の氏神である。これは神仏習合を考える上では大変興味深い。
日本の寺院はかつて神社と一緒に存在していた。人々はそれを区別することなく拝んでいたのだ。ところが、明治政府が神仏を分離するということをして、百年以上が過ぎた。そのため、神仏を一緒にお参りする習慣が薄れてきた(これは、五木寛之先生が話を伺った師の言葉)
つまり、神仏習合が遅れたものとして批判されるようになったのは、ここ百年あまりの間に過ぎない。それ以前は、神と仏を一緒にお参りするのが普通だったのである。

最澄も比叡山から、こうして琵琶湖を眺めていたことだろう。千年という長い時が一瞬、目の前を流れた気がした。


天台宗総本山比叡山延暦寺
滋賀県大津市坂本本町4220
交通手段については省略します。。。。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?