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妹たちのかがり火 戦死した兄さんを悼む~読書記録315~

妹たちのかがり火 戦死した兄さんを悼む 仁木悦子編 昭和47年


仁木悦子さん自身も戦争で兄を亡くしていることから、戦争で兄を失った妹の会「かがり火の会」を1971年11月に結成[1]。仁木の投稿が『朝日新聞』の投稿欄「ひととき」に掲載されたことがきっかけとなった。会誌が47号まで刊行され、文集『妹たちのかがり火』が第4集まで刊行された。「かがり火の会」は2007年3月末に閉じた。

この文集を作るにあたっては、「かがり火の会」会員の中から40名を選び、その作品を収録しました。人選は、入会の順と、地域的内容的な偏りのないように決めたもので、作品の優劣によるものではありません。
本来は戦死した兄についての記録文集ですが、「実兄」と限定せず、弟、義兄、父兄弟、年齢の近い叔父等のケースも収録しました。死亡の原因も「戦場における死」と限らず、広く「戦争による犠牲者」を戦没者とみなしました。
戦争、国家、政治、社会等に対する考え方は、あくまでも筆者自身のそれを尊重し、編者の主観によって捻じ曲げることのないように特に留意しました。(仁木悦子氏あとがきから)


戦争については、当時と今では捉え方がかなり違っていたのだろう。
一言で言うならそう感じた。
召集令状が来ると、隣近所で祝い、「行きたくない」と本音を言おうものなら「非国民」と呼ばれる時代であった。
戦死して靖国神社に奉られると、天皇陛下(昭和天皇)が遺族をねぎらってくれる。
だが、果たして、本当に天皇陛下並びに皇室の真意であったのかはわからないと思う。
当時の流れと言うか、雰囲気に国全体が染まってしまった感じがして仕方がない。

兵隊として死に、靖国神社の英霊となる。これは実は当たり前のことなのか?、仁木悦子氏の文章からは思えた。
仁木悦子氏の家は信仰深いクリスチャン一家だ。仁木悦子氏もクリスチャンであったが、かなり大きくなってから自分で教会を去っている。
その兄は、信仰深いクリスチャンであり、
「非国民」
「この男は天皇陛下のために戦ったのではなくてキリストのために戦ったのだ。こんなやつは靖国神社に入れることは出来ん」
と、靖国神社に祀られていないのだ。

つまるところ靖国神社というものは、戦争で死んだ人の霊を慰めるためにあるのではなくて、そのときそのときの偉い人に都合のいい恰好をつけるためにあるのです。(本書より)

弔うのは、靖国神社でなくても、自分の信仰しているお寺なり、教会なりのお墓でいいんじゃないの?と私が考えるのは戦後生まれだからであるようだ。当時としたら、戦地で亡くなったのに靖国神社に祀られないことはやはり非国民であったのだろう。

又、この方たちの体験談から、戦争に行かずとも国の犠牲となり、若き日の夢を失くした人は多いのだなと思った。
学徒出陣、学校に行けず軍需工場に行く女学生たち。竹やり訓練。
今では、アメリカの飛行機に竹やりなんか。。。と思うが、当時は真剣だったのだろう。

尚、幾つかの体験談として、満州に行っていた兄が敗戦の際、ソ連に捕虜となりソ連で亡くなったとの文もあった。
それは、私の父の兄が全く同じなのだ。


私の伯父の墓だ。小さい頃、祖母から「満州から来たハガキだ」というのを見せてもらった事があった。
「食べ物が良く太りました。皆、元気ですか?」
のような文面であったと思う。
祖母は、「一番いい子だったのに」と、弟4人に対して常に言っていたらしい。
又、いつまで経っても消息が知れず、祖父、親せきと役所に何度も通ったようだ。
もちろん、お骨なぞ帰ってこない。
「ソ連が日ソ不可侵条約を守っていたら」
も何度も聴かされた。

敗戦国の日本は、優秀な若者を特攻隊として失った。だが、勝ったイギリスも同じように優秀な若者を失ったのだと聴いた事がある。多分、外国の宣教師からじゃないかと。。。

今、戦争を従っている偉い人の気がしれないと思うのだった。



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