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日本初の禅寺 福岡市博多区 臨済宗妙心寺派安国山聖福寺 私の百寺巡礼259

福岡旅行を計画して知った事が多すぎて、 スマホじゃないが
「ストレージが足りません」状態に。
要するに!頭の容量の限界が近いのだ。ヤバイよ、ヤバイよ。

と、ここ臨済宗妙心寺派聖福寺は、臨済宗の祖・栄西禅師が開祖した日本初の禅寺である。
ええええ!臨済宗って京都からじゃないんかーい!



聖福寺(しょうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」として知られる。境内は国の史跡に指定されており、主に江戸時代に再建された伽藍がある。山号は安国山(通称は安山)。

寺に伝わる『栄西言上状』によると、建久6年(1195年)に日本の臨済宗開祖の栄西が宋より帰国後、鎌倉幕府・源頼朝より八町四方(約900m四方)を賜り、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した。元久元年(1204年)に落成し、「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰を賜り、山門には後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。これが日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場である。最盛期は、京都五山十刹制の第3位に列する名刹であり、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・子院を38ケ寺も擁する一大伽藍を誇る博多の中心的寺院であった。境内の中に寺中町(関内と呼ばれている)を形成し、今にも残る博多の地名で、普賢堂、中小路、魚町、天屋、蓮池、西門などは当時の寺内町の町割りがそのまま残ったものである。また子院・直指庵は九州探題が置かれた場所でもあり、外交交渉の窓口として外交僧を輩出した。室町時代末期・永禄6年(1563年)には戦乱で兵火を受け伽藍が焼失。永禄11年(1568年)第110世・耳峰玄熊が住職に就任し、元亀元年 (1570年)から 再興するが、再び天正2年 (1574年) 伽藍がことごとく消失し荒廃する。天正15年(1587年)に豊臣秀吉による太閤町割によって境内は四町四方に縮小されるが、領主小早川隆景が寺領300石を寄進、隆景庇護のもと、玄熊が仏殿や総門などの諸堂宇を再建した。その時の状況を伝える、隆景寄進の銘がある朝鮮鐘や、「永禄の変で散逸したが修補した」旨の玄熊の奥書のある「聖福寺絵図」や寺内町の「借家牒」などが現存し、玄熊は中興の祖と称せられる[1]。他文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、慶長5年(1600年)に黒田長政より200石など、幾多の武将による寺領の寄進が伝えられている。
当寺は、当初臨済宗単独寺院であったが、開山の栄西が京都に建仁寺を開山したのち、建仁寺派となる。また、江戸時代には黒田長政の命により、妙心寺派となり現在に至っている。
江戸時代の文化・文政期には、禅画で名高い仙厓義梵がこの寺の住職を務め、文人の間に当寺の知名度を上げた。
現存する主要な伽藍は、江戸時代に再建されたものであり、三門、仏殿、本堂が一直線に並ぶ配置は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置をよく示しており、境内は国指定史跡となっている。

弘法大師・空海が開祖した長福寺のすぐ近くにある。
更に、この辺りは寺町群というのだろうか。臨済宗、日蓮宗、浄土真宗。お寺が多い。
イヤイヤ。それまでの博多のイメージがガラッと変わってしまった。


とにかく、敷地が広い。よくもまあ、新幹線駅から徒歩圏内でこれだけのゆとりがあるなあ、と感心してしまうのだった。

なんと!!普段、気軽に飲んでいる日本茶。実は、日本茶の発祥はここ博多なんだそうだ。人生は勉強やね。
中国に行った栄西が持ち帰ったお茶の種。それを博多で撒いて、日本全国で飲まれるように。
そういえば、以前聞いた事があるのは、日本茶、中国茶、紅茶。全て同じ茶葉で、製造過程が違うのだと。どれを好むのかは、と。


臨済宗って庭が本当に整えられていて綺麗だ。心が落ち着く。
博多駅から近いというのに、観光客は繁華街?か!むしろ、お寺よりも近くにある櫛田神社に行き、飲み屋にといった感じだった。
ひっそりとした静かな寺院で栄西禅師に感謝しながらペットボトルのお茶を飲むのであった。


臨済宗妙心寺派安国山聖福寺
福岡県福岡市博多区御供所町6−1
博多駅から徒歩15分

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