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#03 気について(3) / 臨床の周辺

六銭堂鍼灸院 藤原典往

『積聚会通信』No.24 2001年5月号 掲載

どうして「気」という言葉を持ち出して鍼灸を考えなければならないのだろうか。人によっては「へーそういうものなのか」という程度に終わってしまうかも知れない。現代の社会にそんな迷信めいたことを言うなんてナンセンスのように思える。しかしよく考えてみると、私達が分かっていると思っていることはそう思い込んでいるだけで、どれだけ分かっているだろうか。常に変化している現象を、人はどれほど理解しているだろうか。

鍼1本、体に刺した時のことを考えてみると、鍼から指に伝わる感触は何なのか。刺されている方は神経で説明が付くとしても、術者の感じるモノは客観的に説明できるものではない。言葉では表現できない感覚的なモノだからである。

中国思想の中に「唯物論」「万物」だとかに使われる「物」という考え方があるが『学研現代新国語辞典』で引いてみると「感覚的にその存在を知ることの出来る対象」とある。今、私達が「物」といって思い浮かべる物質的な意味よりも幅が広い。東洋的な発想には主観、客観を問わずその存在を知ることができるものが「物」なのである。「気」は物質を構成する基礎のようにいわれるが、物質ではなく「物」の意味なのである。

「根拠のある医療」が叫ばれている昨今、「やった、刺した、効いた」という従来の鍼灸治療ではこれからの医療としては問題があるといわれる。しかし、その根拠の基準は科学的な手法によるものであり、精密な条件設定によって初めて再現可能であって、常に変化する病態を扱う臨床上では難しいことである。同じ病名でもその背景には一人ひとりの患者の違いがあり、さらに時間の変化を考慮すると同じ患者でも昨日と今日の状態は違う。科学は説明できる現象の一部を切り取って証明しているだけで、それが全てを言い表しているのではない。科学は裏付けとしての意味はあっても臨床上結果を出すのは鍼灸師の個人的な技量である。患者を前にしたとき何を根拠にして治療するのか、それは術者の感覚しかない。太古の医家が患者の前に立ったときと何も変わりがない訳だ。

人の生命も病気も自然現象であり、人知を超えた存在である。予測不可能なことも起りえる。たとえ原子力爆弾で破壊されても自然は再び生命を取り戻す。自然は想像以上に力強いものなのだ。

「気の概念」は人の体や自然をどの様な見方で考えるかという鍼灸の基本的な問題に関わる。科学的な発想は、自然現象をどれだけ客観的に言葉にできるかということであるが、自然は自ら勝手に存在するだけであって、言葉だけでは全てを言い表すことはできない。その奥に在るありのままの姿を捉えるためには固定的な考え方をどれだけ打ち破れるかにかかっている。一瞬一瞬移り変わる現象や予測できない出来事、それらを理解するためには「全てが気によって構成されている」という発想も決して現代にそぐわないものではないだろう。