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助産と鍼灸(3)

風の子堂鍼灸院 中谷 哲

『積聚会通信』No.4 1998年1月号 掲載

今回は助産という言葉について考えてみたい。まずはこの言葉を理解するために、その主役である助産婦の仕事を見てみる。産前産後を通じて、子供を生むということ、それに関するすべての行為を助けていく仕事である。「助産」のきちんとした定義は専門的にはあるのであろうが、それはひとまず置いておいて、ここではとくに、「助産」の「助」という言葉をキーワードとして、我々の鍼灸師という仕事も考えてみる。

さて、出産に関しては、たとえ医師であろうと、男性はそれに関して役目を持たないといってもよいほど、女性である助産婦の独壇場だ。最近は男性の助産婦についてもいろいろと導入に関して議論をされているようだが、私の妻の妊娠出産の一連の過程を見ていて、それに関る助産婦の行為を考えると、羞恥心ということを一切除いて考えたとしても、私は賛成しかねる。まあ、出産時の男性の仕事といえば、妻の腰をさすってやることくらいだろうか。私の場合は、助産婦さんの後をついて回りのぞき込んでは感心したりして、ただの邪魔者だった。初めはそれなりに、妻の手を取ってしっかりと握り締めて、なんて考えていたら、「その手をどけて」とか妻にいわれたりして、結局やることがなくなってしまい、見物人になってしまった。

その役目を持たない男性が無理やりに割り込んでいったのが現状の産科の医療だといっても言い過ぎではない。必要のあるところばかりではなく、不必要なところまで医療を拡大させていったのである。

ある医学誌にこんなことを書いていた産科の医師がいた。「自然な出産、より人間性を重視した出産などと、一部の助産婦がいっているが、現在行われている産科の医療のどこが人間疎外なのだ。様々な機械や処置は、妊婦のためにあるのだ。こうした助産婦を見ると頭にくる。」だいぶ怒っているような文章であった。一見すると納得しそうな向容なのであるが、実際助産婦さんにとりあげてもらうと考えが変わってくる。テレピなどでよく出産シーンが流れるが、あれを思い出してもらいたい。分娩を監視するモニターがつながれていたり、点滴で血管を確保してあったり、また生れたての赤ちゃんから羊水を吸い出したりするおなじみのシーンだ。

こうした当たり前と思われている行為は、本当に医療を受ける側のためのものなのだろうか。実際は分娩を監視するさ装置も血管確保も医療者側の都合である。多くの助産院がそうであるように、本来は助産婦の手の仕事で十分なものである。むしろ機械よりも手を当ててもらったほうが、妊婦としてはいいだろうし、この手当てこそ大切なのだ。現在多くの助産婦はその実力を十分に病院内で発揮できない状況にある。近代医学では客観性が重要視されるため、主観的な情報は排除されやすい。また主観的な見方は教育しづらい。そうした教育を受けてきた医師、助産婦、また鍼灸師も手の感覚をおろそかにする傾向があるように思える。助産婦、鍼灸師ともに、手の技が次世代にうまく伝わっていないようだ。人間も自然の一部である。何の問題もなければ、自然に生まれ、そして死んでいく。我が子が生まれたとき、いや、生まれる前から、助産婦さんは必要最小限のことしかしなかった。例えば、羊水は吸引しなかった。けれども生まれたての赤ん坊は、ケロケロと時間をかけて羊水を吐き出しでいった。おなじみのシーンは一つもなかったけれど、赤ん坊は生さることを楽しむように自らの力で問題を解決していった。この時に、生きるのを邪魔しているのはいったい誰だったのか、見えてきたように思えた。

わが子が生後2か月になろうとした頃、妻が風疹に罹った。専門家は感染を「予防」する意味で、薬を飲ませることを勧めた。周囲の言葉にもめげずに、妻は子どもに母乳を与え続けた。この子の生きる力を頼りに、そしてまったく発病もせずに、元気一杯妻に張り付いていた。このときから私の鍼灸は、ただー言になった。「邪魔をしない」私たちは「生きる」システムの中にある。