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ライフ・エンディング制度(仮)

 2060年5月31日。水面の反射光が煌めく窓辺で、穏やかな波の音を聞きながら私はこの文章を書いている。これまで色々な文章を残してきたが、人生の最期に何を書けばいいかと言われると案外言葉が出ない。手元の案内には「あなたの自分史を振り返って、思いを遺したいことや、家族へ感謝のメッセージを書きましょう」と書かれているが、はて自分には何か言い遺したいことはあるのだろうか。とりあえず、まずは自分史なるものを書いてみようと思う。

 私はこれまでシンクタンクという業種の会社で、会社員として行政の政策立案の支援を行ってきた。2027年5月のことだ。よく出入りしていた厚生労働省社会・援護局の局長から呼び出されたあの日を今でも忘れない。目の前に見せられた1枚のポンチ絵には、A4の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた文字の上に1行「早期人生終了制度(仮)」とタイトルが書かれていた。その下にはオレンジ色の枠が3つ、それぞれ「社会保障負担の軽減」「孤立化する高齢世代」「尊厳ある人生の終り方」と無機質なゴシック体で、随分と仰々しい言葉が並んでいたこともはっきり覚えている。
 その頃世の中では、「尊厳死」「自由死」という言葉が日夜ニュースで取り上げられていた。数年前に世界で猛威を振るった感染症のパニックは、様々なワクチンや治療法の開発によって一定の収束を見せ、毎年冬に流行る季節性の病気になった。しかしながら、罹患して回復した人たちの慢性的な呼吸器疾患リスク、血栓症リスクなど、長く残る後遺症は問題として残った。とりわけ、70歳以上の高齢で罹患した人たちは、その後遺症によって長期的な治療が必要となり、介護施設や特養施設入所者からの入院患者が漸増していき、のちに無症状感染者だった人たちからも同様の後遺症が見られはじめ、従来からの高齢者医療難民問題に拍車がかかり、医療体制の逼迫が喫緊の課題となった。
 時代背景をもう少し言えば、「独り身老人の急増」という問題もあった。2010年代から言われていた少子化問題は抜本的な解決に至らず、そもそも生涯を通じたパートナーを見つけられないまま50代を迎える人たちが全体の3割ほどになった。つまり、「死を選んでも悲しむ家族がいない」人々が急増していったのだ。
 そして、2026年、ある作家が「鼻枷(かせ)からの解放」という書籍を出版し大ベストセラーになる。作者はそれまで独り身生活を「おひとりさまシニアライフ」として楽しんでいたが、感染症の後遺症により余生をほぼ間違いなく酸素吸入器、やがては人工呼吸器と共に歩むことになる。「後遺症患者」としての日々の制限に不満を溜め込み、社会からレッテルを貼られ、自己の尊厳が凋落していく様を儚みながらも、「自分が自分でなくなる」不自由な自己に陥る前に死を選べるのは希望だとして、自死を決意するという話だ。実際にこの本が出版される前に彼女は自死しており、遺言(古い表現で言えばエンディング・ノート)としてこの本は出版されるが、世間はこれを好意的に受け入れ、重篤患者でもないが慢性的で進行性の後遺症を引きずるような人たちの「尊厳死」を、選択肢の一つとして社会的に認めるべきではないかとして、広く議論がされ始めた。

 そういった最中、行政でも官僚の若手有志が社会課題解決策として「早期人生終了制度(仮)」というものを検討し始めたというわけだ。
 医療業界・介護業界・倫理学者(あと「社会学者」とか「若者代表」とかよくわからない肩書の人たち)等様々な識者を巻き込んで検討会が開かれ、私は制度設計・法案策定の両面から支援を行った。「尊厳死」はあくまで、治癒不可能な進行性の病を患う人が、意思能力のあるうちに過剰な延命措置を選択せず死を選択するというものだが、「早期人生終了制度」は治癒不可能でも進行性のある病でもない、ただ「確実に慢性的に苦しい老後」を迎えることがわかっている人たちに死という選択肢を認める制度だ。
 足掛け5年くらいかけて検討会で議論されたが、私が一番心に残っているのは、ある脳科学者が言った「現代医学では、脳の機能一つとってみても死の境目というものは曖昧になりつつある。医学的に他者から死を判定される前に、後ろ向きな事情ではなく自ら死を判断することは、選択肢としてあり得ていいのではないか」という言葉だ。
 その後、この制度の導入検討が首相から公表され、パブリックコメントというか、この制度導入について様々な人が議論できる政府公式の議論の場がオンライン上に開設された。開設当初は「姥捨て政策」「老人切り捨て国家」「過去の歴史を無視した過剰患者差別」など猛烈な批判の嵐が書き込まれていたが、やがて実際に後遺症に苦しむ人たちの生の声が少しずつ投稿されるようになり、同時にこの後遺症が緩和される可能性についての最新の研究報告や、死とは何かを哲学的に議論する場にもなった。批判の嵐の最中は、この制度検討を進めてきた自分としては、胃の痛いことも多かったが、少しずつ建設的な議論がなされるようになって、一安心したことも懐かしい思い出だ。
 こうした国民を巻き込んだ議論の末、この制度の適用には様々な条件が必要とされた。貧困で目下生きてゆけなかったり、独居老人で将来に希望を見出せないなどの漠然的な「自殺願望」との明確な線引きが必要だったためだ。特定感染症の後遺症認定によって辛い老後が予見されることが前提となり、保有資産の下限が設定されて「貧困だから」ということが死の選択の要因にならないよう配慮され、当然ながら意思判断能力があることを証明するSPIのようなテストに合格して、そして家族およびコミュニティグループメンバー全員が同意していることが条項に盛り込まれた。「コミュニティグループ」という概念はこの制度設計で新たに生まれたものだ。本来、医療では「家族の同意」が基本とされてきたが、多様性が重視され法律上親族ではない「パートナー」や「住居に関わらず日常生活を共有する人々」からの同意も、この制度の適用には必要とされた。
 政権のごたごたもあり、何度も法案提出が見送られ、ようやく法案が可決されたのが2037年。可決とほぼ同時に「この制度は憲法に定められた『健康で文化的な最低限度の生活』を営むための基本的人権を侵害する」として反対派の弁護団から提訴され最高裁まで上訴される。このころ、慢性疾患を患っていたうちの当時85歳の母親が「私もこの制度を使おうか」と言い出して必死に止めたことを覚えている。
 そして、決定的となったのは、2039年、アメリカの専門機関から、20年に渡る研究の末、この特定感染症の後遺症を治癒させる療法が根本的に全く見いだせないことが判明したという学術論文が有名誌に提出されたことだ。若い人のほとんどにとっては鼻かぜ程度で済むこの感染症が、高齢者にとっては一生を左右し得る脅威となることを、世界の人々は受け入れざるを得なかった。

 そして、日本の人口の3人に1人が85歳以上の高齢者となった2045年から、いよいよこの制度が始まった。正式名称はとても長い名前がついているが、現在は「ライフ・エンディング制度」という名称で広まっている。この名称、実は私がどこかのタイミングで書いたレポートで適当に考えた名称なのだが、こうして広く使われているのはひそかな自慢だ。
 ひっそりと勝手に死を選ぶことがないよう、この制度を利用するためには、亡くなる1年前から制度利用候補者として官報で公表される。記念すべき(?)1人目は、昔は仮想通貨と呼ばれる投資で一財を築いた人物だった。この人物はSNS界隈では「喪Q氏」として有名で、生涯孤独な人生だったらしい。年齢も性別も不明だったこの喪Q氏は、公表によって実名と共に後遺症に悩まされていることが衝撃をもって広く報道された。SNSでは制度利用を思いとどまるよう嘆願する数百万単位の署名が集まったものの、喪Q氏は制度上、同意が必要とされる「コミュニティグループ」に該当する人物が少なく、2047年2月、正式な手続きによって喪Q氏はその生涯を閉じた。多くの反響を呼んだ一方、喪Q氏の「終活」は見事なもので、葬儀や埋葬の段取りは当然のこと、残された遺産の寄附先や、身の回りの物の生前整理、ネット上に遺されたデジタル遺品と呼ばれる情報の整理も完璧にこなされていた。その一連の人生の終い方は「喪Q逝伝」というタイトルで書籍化されている。
 こうした制度は、一人目の利用者はセンセーショナルに報道されるものの、二人目以降は特に大きく取り上げられることもない。最近は、年末のニュースで「今年、この制度を利用して亡くなられた方は○人」と数字で紹介されるにとどまっている。


 さて、自分の話に戻ろう。2053年3月、長年勤めあげた会社を70歳で退職した自分は「生涯活躍人生100年社会」という国の敷いたレールに乗って、小さな会社の外部取締役やシニア経営アドバイザーのポストをいくつか用意された。ファーストキャリア時代と比べて毎日あくせく働くことはなくなったが、100歳で亡くなった母親の相続手続きなどを並行して進め、セカンドキャリアの道を歩み始めた。55歳の時に、地方都市の郊外にある手ごろな広さの空き家を買って、古くからの知り合いのツテで住みやすくリノベーションを施した住まいに、妻と穏やかに二人で暮らしていた。子どもはなく、借金もなければ大した貯金もないものの、これからの人生に大した不安もなかった。
 忘れもしない2059年8月、その日はあるメディカル企業のアドバイザーとして9時から打合せの準備を家でしていた時だ。端末を立ち上げ、その日の会議の資料に目を通しつつ、いつものように妻が淹れてくれたコーヒーを一口含んだところ、匂いも味も全くせずただ温かい液状の物質が、口からのどを通っていくのを感じた。私はすぐにかかりつけ医に連絡し、即日検査。めでたいことに陽性反応が出たため、即隔離病棟に入院となった。妻も即日検査を行ったが陰性だった。この感染症の罹患者は4割が無症状、4割が軽症、残り2割が重症化する。今から考えれば、この時自分がもし重症化していれば、色々と段取りは一足飛びに進んだように思う。自分の場合は、2週間ほど39度程度の熱が出たものの、その後重症化することもなく、無事退院とはなったが、息が切れやすく、胸が苦しくて深く息が吸い込めなくなっていた。
 退院当日、医師から70代以上で罹患して回復した人間でも5割程度は後遺症が残る可能性があり、あなたの場合は後遺症の兆候が見られると宣告された。既に感染症自体は治癒しているので他人に伝染させる心配はないが、今後は後遺症の緩和ケアを行うため、定期的に通院する必要があると言われた。ピンク色のざらざらしたコピー用紙に、かすれ気味のインクでつらつらと印字された一連の書面が手渡された。1枚目には、かすれ気味に「後遺症認定手続きについて」という文字が書かれている。後遺症の認定を受けると、自治体の支援対象になるので、よく読んで2週間以内に所定の手続きを行うようにと指示された。

 とりあえず今夜は家でゆっくり寝ようと思い、タクシーで帰宅して、玄関から寝室に向かうまでの少しの段差を上がるだけで息が切れた。翌日、古くからの友人達がオンライン・オフライン問わず集まって盛大に快気祝いを行ってくれたが、今まで大好きだったタコのミキュイやイタリアのナチュールワインは相変わらず全く味がしなかった。アポロ計画時代の宇宙食はほとんど味のしないものだと聞いていたが、こんなものなのかと思った。
 次の日からいつもの暮らしを再開した。協力していた会社の皆さんには「ご迷惑をおかけしました」と時代錯誤なお詫びの連絡をして、在宅で仕事も始める。ただ周りも罹患前に比べると少し距離があるようにも感じた。打合せで画面越しに会話する時も、少し意識的にゆっくりと私の発言の時間を取ってもらっている気がして遠慮がちな気がした。いつも通りの話し方をするよう意識したものの、早口になって結局うまく息が継げず、その日はせき込むことが多かった。
 1週間ほど経ち朝ベッドから起き上がるだけで息が上がるようになった。横になったまま身体を曲げて脚をベッドの外に出し、ズボンを何とか履き替えることはできたが、肩が動くほどに息が苦しくなる。 結局その日は、ベッド脇の机に移動することもままならず、妻に端末を手渡してもらい、ベッドの上で必要な業務連絡をした。
 その夜、改めて先週病院でもらった後遺症認定手続きの書類を読む。書類と同時に提供された診断書にはよくわからない血液検査の数値結果と、「血行障害」「呼吸器障害」「知覚障害」という項目の横には詳細な症状名が並んでおり、その横にはそれぞれ「重度・軽度・兆候あり・無症状」の4択欄がついていて、いくつかの項目の「軽度」と「兆候あり」の欄に〇がついていた。「兆候あり」と〇のついた症状の一覧を眺めると、肺塞栓症や動脈硬化症など怖い言葉が並んでいる。
 少しためらいもあったが、ボールペンを取り出し、「後遺症認定申請書」のいくつかのチェックボックスにチェックを入れ、最後の署名欄に自分の名前を書き、申請書全体を端末で読み取って、申し込み手続きを行うため自治体窓口の専用サイトにアクセスした。
 専用サイトは、ポップなイメージキャラクターが踊る市のサイトのヘッダーのすぐ下に、えらくかしこまった書体で「後遺症認定を申請される皆様へ」と書かれている。いつもなら適当に文章を読み流して「次へ」ボタンを押すのだが、この時ばかりは丁寧に文章を読んでいくと、申請によって行政から今後生活するうえで適切な支援が受けられる一方で、後遺症認定によってセカンドキャリアとして契約されている会社から解除される場合もあると説明されていた。原則、医師から宣告された人はこの申請を自治体に提出しなければならないが、最近は後遺症認定を固辞する高齢罹患者も多いと聞く。 私は、その他の事項も注意深く読みつつ、最後の申請ボタンを押した。「申請を受け付けました」という簡素な文章のページに飛ぶと、そのページの右下の隅の方に小さなフォントで「ライフ・エンディング制度のご利用について」というリンクがあったが、その日はそのリンクを踏まずにサイトを閉じた。

 翌週、早速シニア経営アドバイザーや外部取締役として協力していた会社から、契約解除の申し入れが次々にあった。頭では理解し十分に覚悟していたことだが、ザ・解雇通告のようなものが届くと手の震えが止まらなかった。
 いつもの味のしない夕飯も、輪をかけて喉を通らず、妻に何かあったかと聞かれて後遺症認定の話と契約解除通知の話をした。妻には相当に怒られた。妻はこういう時、極めて冷静に理論的に私に説教をする。「なぜそういう大事なことを自分一人で決めてしまうのか」という話をとにかくいろんな角度から指摘された。何も反論ができなかった。
 それから1カ月ほど、本格的な隠居生活が始まった。指先につけるパルスオキシメーターと酸素吸入器が市役所から届き、鼻に管をつけると呼吸が乱れることなく身体を動かせるようになり幾分生活が楽になった。朝は起床できるようになったものの、「自分の仕事」だと思っていたものは全て取り上げられ、朝起きて味のしないご飯を食べ、夜になれば寝るという生活。隣の部屋で働く妻の邪魔にならぬようひっそりと身体を動かし、ずっと見て見ぬふりをしていた雑多に書類が積まれた机と書棚の整理を始めた。散歩できるほど体調は良くなかったが、妻は私のために電動車いすを購入してくれて、 外出もできるようになった。
 妻の収入と市からの補助金で我が家の生計は特に困っていない。多少身体が不自由とはいえ、 まだ寝たきりになったわけではない。でも数カ月前まで社会で必要な一員として「生涯現役」のレールに乗って「シニア経営アドバイザー」としての肩書を持っていたはずの自分が、あっさりと「後遺症認定者」というラベルが貼られ、文字通り「味のしない生活」を強いられることになった。
 「ライフ・エンディング制度」を検索したのは、どうにも寝付けなかったある日の午前2時過ぎのことだ。検索結果の最上位には、厚生労働省のページが出てくる。ページに飛ぶと「ライフ・エンディング制度とは」というタイトルと共に制度自体の説明が書かれていた。この文章の素案、20年ほど前に私が作ったものだ。まわりくどい一文目なんかそのまま残っている。今もまだ現役なのかと、思わずふっと乾いた息を漏らしてしまった。これまでに132名の方がこの制度を利用したそうだ。下の方に 「ライフ・エンディング制度のご利用を希望される方はこちらへ」というボタンが用意されている。その日はこのページより先を進む気にはなれず、サイトを閉じた。
 翌日から、SNSでライフ・エンディングを利用した人たちの体験談、というか実録の遺言を読み漁り、コミュニティグループの一員としてとしてライフ・エンディング制度に同意した、いわゆる「遺族」の方たちの呟きも、持ち前の検索スキルを活かして読み耽った。後遺症の恐ろしさと死を選ぶことの是非についてセンセーショナルに取り上げるまとめ記事も多かった。ライフ・エンディング制度の予定死の当日に怖くなってキャンセルした人もいるという噂だ。制度利用者のコミュニティグループのメンバーとして同意を求められたある人は、数年経った今でも「ライフ・エンディングを利用したいという彼の意思は尊重されるべきであったが、私の同意がいまだに正しかったのかはわからない」とずっと苦悩されていた。
 鼻から耳の後ろにかけてその先の小型ボンベまでつながったゴムチューブ、左手の人差し指にずっとついているパルスオキシメーター。これから未来永劫自分の身体に繋がったこの枷は外れない。そして、社会から求められる自分の役割は全てなくなってしまった。もし今後、後遺症がよりひどくなれば、今以上に不自由な生活を強いられ、同い年の妻に介護という迷惑をかけてしまうかもしれない。もし認知症が始まって意思決定の判断力がなくなって、この制度が使えなくなってしまったら?私が補助金だけの収入になった今、我が家は少しずつ貯金を切り崩している。もし貯金が制度の適用できる範囲より低くなってしまったら?結局その日は眠れず朝を迎えてしまった。
 次の日、妻にライフ・エンディング制度について相談した。妻は制度自体をよく知らなかったようで、私は20年前から様々なところで説明してきて、すっかり板についた制度の説明をした。何も見ずにでも自然と口から出る言葉に任せていたら、官僚に向けるような冷静で客観的な一連の制度の説明をする口調になってしまい、妻はそのたびに「制度の説明じゃなくて、それはあなたの意思なの?」と突っ込んだ。妻は話が進むにつれて眉をひそめ、しまいには静かに涙を流した。
 しばらくの無言の後、妻は「今の生活はそんなに辛い?」と私に聞いた。正直今は辛いわけじゃない。味がしない、息が辛い程度のことは、死ぬほどの苦しみじゃない。でも待ち構える未来は間違いなく辛い。そして何より、私にとって思い描いていたキャリアが全くなくなった今、キャリア・エンディング=ライフ・エンディングも同様だ。今後、後遺症がひどくなって辛くなる前にサヨナラする選択肢もあるのではないかと、そんな話をした。
 結局その日のうちに話がまとまるわけもなく、妻の説得には半年を要した。こういう気まずい話題は、我が家ではうまくいかなかった時は、しばらく封印するのだが、私に残された時間は少ないので嫌がる妻を何とか説き伏せ、この話題をし続けた。いつも夕飯時に話題にしていたので「晩御飯の味がしない」と妻に苦情を言われたが、私はあの日以来ずっと味がしていないのだ。そんな言葉が口を突いて出たとき、妻の目は私の遥か後ろを見ているような気がした。
 妻がライフ・エンディング制度に同意してくれてからというもの、少し私への態度は変わったように思う。どこかよそよそしいというか、私を本当に家族として見ていないというか。過去に別れた他人という感じだ。家での生活が居たたまれなくなった私は、早々に身支度を整え自分の関わるものをスーツケース一つ分に残して他は全て処分すると、後遺症が進行したこともあり、市の施設に入所することにした。
 入所日に荷物を一緒に持ってきてくれた妻は、本当に老けたなと感じたが、車いすに乗り酸素マスクが手放せなくなっている自分の方が老いていることにすぐに気づき、少し笑ってしまった。笑った私を見ても、妻は表情一つ変えなかった。以降、妻は余りここに顔を見せていない。
 私が143人目のライフ・エンディング制度利用候補者として公表されてから、何人か連絡を取ってくる人がいた。色々と説得してくる人がいたり、後遺症を和らげる効果があるという食材を薦めてくれるもの、神を信じればどんなにつらくても生きていけるというものもいた。幸いにして、同意の必要なコミュニティグループに属する人は少なく、直接今の私の姿を見せて、妻の同意があることを息も絶え絶えに説得すると、皆あまり抵抗することなく同意してくれた。
 入所してからしばらくは意思判断能力テスト対策の試験勉強をした。死を選ぶために試験勉強をする、なんて滑稽なことだろう。私が制度設計に携わった頃は判断力を問うSPIのようなものを想定していたが、現在は、リーディングスキルや、トロッコ問題のように答えのない問題について自分の主張が述べられるかなど、考える力を問うような問題に変わっていた。そして先月、私は過去この試験を受けた142人の誰よりも高い得点でこのテストをパスしたことを誇りに思っている。

 さて、そうして今現在、自分は高齢者特定後遺症緩和施設で日々を暮らしている。最期の言葉を書くにあたり、どうしてもとお願いして、今となっては古めかしいキーボードとモニターを用意してもらった。やはりこうやって画面に向かって文字を打った方が、頭が整理できてすっきりした文章が書けている気がする。
 月並みな言葉だが、改めていい人生だった。生まれてからこれまでかかわってきたすべての人に感謝を申し上げたい。特に、50年近く私に寄り添い続けてくれた妻にはありがとうを何度言っても足りないくらいだ。こんなわがままな私にずっと付き合い続けてくれるなんて、千載一遇のまたとない出会いで結ばれた唯一無二の素敵な女性だ。心からありがとう。そして、彼女の望まない形でのお別れになってしまう私のわがままをどうか許してほしい。
 私の予定死は自分の誕生日、6月2日明後日だ。天気予報によれば、穏やかで温かい一日になるらしい。安らかなライフ・エンディングになることに期待を抱きつつ、この話を終わろうと思う。


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 2060年6月1日、雨。どんよりとしてしばらくこの場に居座る気満々の灰色雲が空一面に広がっている。
 妻が見知らぬ若い男性を連れてやってきた。40年ほど前に暮らしていた共同住宅で、隣に住んでいたお家の息子さんだそうだ。今はイスラエルで臨床研究医をやっているらしい。その彼が言うには、この進行性の後遺症を新しいミトコンドリア療法で治す研究を進めているそうで、その治験者になってほしいとのこと。ライフ・エンディング制度で公表してから、私のことがいろんな人に伝わり、遠く異国の地で研究に勤しむ彼の耳にも入ったらしい。自分の研究をどこか得意げに話す彼のしぐさを見ていて、まだ小学生だった頃の彼をようやく思いだした。
 久しぶりにやってきた妻は10歳は若返っているように見えた。この治験に私が参加するというまでテコでも動かない、そんな気概を感じた。妻の迫力に気圧された私は、好きにしろと言ってしまった。
 妻を説得するのに半年もかけたのに、私が説得されるのに半日しかかからなかったのは少し癪に障るが、しょうがない。この文章が無駄になるのも勿体ないので、これはこれで残しておこうと思う。

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