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帰りを待つ 多くの思い

11月19日 読売新聞 (筆者=吉田修一)

 去る9月15日、MGCと呼ばれるマラソン大会が開催されました。この日、ハッとテレビの中継画面に目が向いたのは、序盤から独走体勢を築き上げていた設楽悠太選手。ペース配分は大丈夫かな? と思いつつも、二位までに入れば代表に選ばれる! との条件に、私までも緊張感が張り詰めました。

 かく言う私も中学では陸上部の長距離をやっていましたので、気持ちが分かる! とまでは言えずとも、私を設楽選手に置き換えて、その大舞台でのハラハラ感を味わう事ができたのです。この設楽選手の走りを目の当たりにされた吉田修一さんは記事の中で、

《その声援にまるで自分まで飲み込まれた瞬間、ほんの一瞬のことではあったが、肉体というものが崇高であると感じるには十分だった》

 と書かれています。これもまた、分かる! とは簡単に言えませんが、大声援の中を駆け抜ける設楽選手の姿が、私なりに思い浮かんだのは間違いありません。それは私の脳裏に”ほんの一瞬”浮かび、その姿がまさしく”崇高”であったのです。私は人でも動物でも、走っているその動作の(特に全力疾走している)姿態が好きで、その姿はかっこよくて美しく、まさに芸術的です。
 この記事からは、”ランナー”というものの魅力、若かったあの頃の瑞々しい憧れ、そんな情感が蘇ってきたのです。

 私の場合は駅伝の補欠メンバーに選ばれたのがやっとでしたが、こんな私でも、ランナーズハイと呼ばれる境地を経験した事がありました。速く、長い距離を走っていても、息すら切れずにグングンとペースが上がります。前しか見えず、ただ走る事にだけ神経が集中し、走り続けるのが気持ちよくてやめられない状態。それは超人になるための入力キーが頭の中で押されたような不思議な出来事。なぜそのような事が起こるのでしょうか?

《そしてふと思った。そうか、マラソン選手というものは、たとえ時空が歪んでも、ただ一心にゴールへ、そこで待っている人たちの元へと向かっていく人たちのことなのだと》

 との記事と、前田穂南選手のゴールする写真がとても印象的で、そしてそこに添えられた文言。

     帰りを待つ 多くの思い   沿道 声援の大波

 きっと、待つ人や見ている人々の多くの想いが、ひとつのドラマを生み出すのではないでしょうか。ドラマティックであるがゆえに、主人公は一心になれるのかもしれません。すると記事にも出ていたギリシャのマラトンの戦いが想起されます。報せを待つ人々の想いに、報せに走る人はきっと、あの境地への入力キーが押されるのだと思います。劇的な中で成し遂げられた事象であったからこそ、オリンピック競技として残ったものではないでしょうか。

 来年は東京オリンピック。想像もできない大勢の人々が関わる中で起きたマラソン・競歩会場変更問題。多くのメディアで論じられ、選手や関わる人々へ大きな波紋が広がりました。しかしそういった問題を乗り越えてこそ、作り物のドラマを超えた素晴らしい事象が起こるのではと、私は期待します。それはのちに歴史と呼ばれるものになるかもしれません。その歴史を刻むのはランナーであり、関わる全ての人々であるのは間違いありません。遠く離れた私ですが、見る人として関わりたいと思います。どうしても応援したくて、画面ではなく目の当たりにしたいと、私は来年のそのゴールを”待つ”のです。

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