ゴジラ-1.0

イチロー「壁というのは、超えられる可能性のある人にしかやってこない」


庵野秀明作品と比較されることを宿命づけられた映画。
「次に監督する人はかわいそうだ」と盛大に放ったセリフが綺麗にブーメランとなり直撃した山崎貴監督の作るゴジラ。
悲壮感漂うムードの中解き放たれた令和の怪獣は、銀座の街と前評判を、見事に破壊してのけた。と思う。そう感じたのは僕だけではないはず。

まずネタバレ無しの感想を書く。
ネタバレなんて見たら絶対映画館にはいかないけど、後悔しないために感想は読んでおきたい、というヒネクレタ人でも安心してほしい。

あらすじ※https://filmaga.filmarks.com/articles/277705より引用
出兵していた敷島浩一(神木隆之介)は日本へ帰還するが、東京は焼け野原と化し、両親は亡くなっていた。 人々が日々を懸命に生き抜いていく中、浩一は単身東京で暮らす大石典子(浜辺美波)に出会う。 
しかし、戦後の混乱から国を立て直そうとする人々を脅かすように、謎の巨大怪獣が現れ、復興途中の街を容赦なく破壊していく。

引用終わり

なんといっても山崎貴監督だ。VFXクリエーターとしての彼が本気で作ったゴジラは、ノスタルジー漂う「特撮」ではない。

どう考えても考えても〇ラシックパークなショタゴジラに、どう考えてもサメ映画の海ゴジラ。しかも敷島たちの乗る新生丸はオルカ号もびっくりのオンボロ木造船だ。
ブロディ署長も失禁して腰が抜けるレベルである。コントかとツッコミたくなるほどの佐々木蔵之介の見事なフリオチには、
うん無理だよね、と、みんなそう思った。
理由も出自も不在となった、ただただ暴れるゴジラが銀座の街を破壊するというワンシーンだけ切り取っても、2000円払って映画館に行くだけの価値があると思う。

僕は甘めに見積もっても熱心な山崎貴ファンではないし、怪獣映画フリークでもない。だからシンゴジラの特撮風には特に心を揺さぶられなかったし、シン仮面何某のとっ散らかった特撮カットには吐き気すら覚えた。

同じような人も多いと思う。
「怪獣映画とかあんまり・・・」「ゴジラ見たことないし・・・」「特撮も別に・・・」
大丈夫。山崎監督は誰も置き去りにしない。
ゴジラ無しでも美味い料理に最高のゴジラが瓦礫のスパイスを振っている。
わくわくしないはずがないし、期待を裏切られることはないと思う。
なんたって僕の隣に座っていた小学4,5年生くらいの男の子が、いっちばん良いシーンで耳をふさいで目を伏せていたのだ。もうこの時点で、僕の中で、この映画の成功は確信になっていた。


さて、ここから先はネタバレを含むと前置きしておく。
というか勢い余って思いの他ネタバレする自信がある。すでに鑑賞済みか、あるいは誰が何と言おうとこの映画は見る、と決めているくせになぜか事前に感想を開いてしまうような気が触れた人だけ見てほしい。

かの安打製造機は、遠く離れた異国の地でこぶし大の玉を捕ったり打ったりぶん投げたりしながら、掲題のような言葉を残している。

このゴジラ映画の描かんとするものは、まさにこれである。
ゴジラは、核が生み出したモンスターだ。
初代ゴジラが生み出された1954年から、この怪獣には、論理のDNAが流れていた。
だからこそ国は膨大なカネを軍事力に変換してゴジラに砲弾の雨をお見舞いしてきたし、
作中で登場してきた科学者・技術者は〝一応″理に適った対策法を提唱、実践してきた。
どうやって倒すかわからない怪獣を何とか知恵を絞って討伐する物語だったはずだ。
当然ゴジラを退けた人々の顔には安堵の色が浮かぶ。
この怪獣は、たしかな質量を持っていた。我々と同じく、まぎれもない生命体だったのだ。

なんと山崎貴は、ここをひっくり返してきた。
とんでもない大博打である。
今作におけるゴジラには、おおよそ質量と呼べるものが備わっていない。
ゴジラは敷島の生きようとする覚悟によってのみ退場を認める、概念としてのモンスターになったのだ。

今作は、トラウマ克服の物語であり、神話的通過儀礼を描く物語である。

「生きて会おう」という両親との約束を都合良く解釈し特攻から逃げた敷島は、機体の修理を名目に上陸した大戸島にてショタゴジラの天罰を受ける。
トラウマとは前へ進み続けようとする人間のみが獲得できる生の副産物だ。
だからゴジラは敷島の恐怖を見逃さない。
20口径の弾丸をぶち込むしかないと言われ機体に送り込まれた敷島の、恐怖で震える姿をあざ笑うかのように、ショタゴジラは敷島(と橘)以外の同僚を皆殺しにする。

特攻から逃げた負い目。大戸島での経験が植え付けたサバイバーギルト。これ以上ないほど卑屈になった敷島の帰りを待っていたのは、焦土と化した実家である。
両親は死んだ。遺体すら見つけることはできない。もはや生きる意味を完全に喪失した卑屈のトリプル役満のような敷島は、大石典子と出会う。
ラノベ的展開でサクッと同棲まで実現し、トラウマを心の奥底に鎮めようとする敷島だったが、もちろんアイツがやってくる。
ビキニ環礁で核のロウリュウを浴びて、超巨大化&とんでも破壊力を土産に。
トラウマは心に鎮めようとすればするほどに肥大化し、その呪力を強化するのだ。

怪獣はオタク心満載の戦艦高雄を一瞬でジャンク品に仕立て上げ、オンボロ船に乗る敷島を追う。
何とか生き延びた敷島は、典子とつかず離れずのこれまたラノベ的距離感を保った日々を送るが、もちろん敷島は許されていない。そしてゴジラは典子が働く、銀座の街にやってくる。
「お前は逃げられない」まさに呪いのように。
50mの巨体は気持ちいいほど銀座の街を破壊し、絶望としか形容しようのないはかいこうせんで典子の命すら奪ってゆく。

n回目の自暴自棄を披露する敷島だったが、半ば強引に巻き込まれる形で、民間のゴジラ討伐作戦、海神(ワダツミ)作戦に参加することになる。
上手くいく「かもしれない」。立案者すら自信を放棄する作戦である。
当然ゴジラはそんなものでは沈まない。
あえて繰り返すが、今作は敷島の物語だ。
敷島が生きる意味を見出すための物語だ。
ゴジラは敷島の生きようとする覚悟によってのみ倒されることを許容する、敷島のための神である。
当然、ありものでこしらえた野菜炒め的作戦は文字通り海の藻屑と化す。
もう終わった。誰もが呆然自失で立ち尽くすなか、試作機として実践投入されなかった震電に乗った敷島が、ついに真正面からゴジラと相対する。

震電そのものを一つの爆弾としてゴジラの口に放り込んだ敷島は、一足先に機体から脱出を果たし、そしてゴジラは崩壊する。爆散ではない。崩壊だ。ゴジラは火力に屈したのではない。
敷島の覚悟を受けとったのだ。
ワダツミ作戦参加者の面々は崩壊するゴジラに向けて誰からともなく敬礼する。
安堵からではない。畏敬の念である。

天気予報など到底存在しなかった大昔の日本では、自然災害を鎮めるために祈りをささげた。
災害をコントロールしようなどとは思わなかった。災害には自分たちの論理が通用しない。だから恐れ、祈り、そしてそこに神を見た。
敬礼する者たちが目撃していたのは、まさに神の去り際なのである。

この国もまた、前向きに生きなければならない。トラウマは、個人だけが背負うものではない。
敗戦し、国と呼べる機能をおよそ喪失した島国にもまた、前へと歩みを進める覚悟と物語が必要なのである。


映画とは取捨選択の表現だ。大学の奨学金なんて小銭に思えるほど膨大なカネがかかる。
(今作の製作費は10億なんていわれているが、それはさすがに無理だろう。と思ったら山崎監督が直々に否定してるのね笑)
まして受け継がれてきたシリーズものには、多くの制約が伴うし、ゴジラはまさにその代表例だろう。

フォルムも自由度は低い。グロはNG。ラストシーンは・・・。我々が想像する以上の足かせが、伝統という美しい名前をもって監督を縛るのだ。
そんななかで制作されたこの映画は、かなりうまいことやったと思う。
少し早いが、今年一番といって間違いないだろう。怪獣映画の枠組みに縛られず、日本映画として傑作に仕上げた山崎監督に、心からの賛辞を贈りたい。

ちなみにラストシーンには反対です。

まあでも仕方ないよな。それも制約なんだよな・・・。

来週もう一度見に行きたいと思う。

この映画が売れなきゃもう日本映画は終わりやで。

ただしIMAX、テメーはダメだ。

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