東京芸大⇨ひきこもり経て著名アーティストに。当事者に伴走する現代美術家の過去と現在/ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 渡辺篤さん
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渡辺篤さん(現代美術家)
聞き手:山田英治(株式会社 社会の広告社)
渡辺さん)渡辺篤(わたなべ あつし)です。僕は現代美術を作る仕事をして現代美術家と名乗っています。
山田)渡辺さん自身は今、どういった作品で世にどんなことを問おうとされているのでしょうか?
渡辺さん)僕自身がもともとひきこもりの当事者経験があって、僕がひきこもりを終えた直後から現代美術家に現場復帰したのですが、主にひきこもりであるとか、トラウマを抱えているとか、生きづらさとか他には孤立や孤独の当事者の方々と協働するようなアートプロジェクトを、今まで様々に展開してきました。
山田)もともとひきこもった経験があるということですが、渡辺さんは子どもの頃からアーティストになろうというような思いがあったのでしょうか?
渡辺さん)僕は小さい時から絵を描いたり、工作を作ったりするのが得意な子どもで、小学生の時って絵画コンクールでよく描けた子が賞状をもらったりするのかなと思うのですが、ありがたいことにたくさん賞状をもらったり、ほめられたりという経験がたくさんありました。また、そういう手先の器用な子どもでプラモデルを作るのが好きでした。学校の時間がずっと図画工作の時間だけであればいいなと思うような子どもでしたね。
山田)では、自ずと美術系、大学芸術系の大学という選択になっていった感じですね。
渡辺さん)中学生の時に、NHKのテレビ番組で多摩美術大学と武蔵野美術大学が壁画対決をするという番組を見ました。大学生になってもずっと絵を描いている人がいるということを見て、僕もそういう学校へ行きたいなと中学生の時には目標にしていましたね。
山田)大学は東京芸術大学(東京芸大)ですよね?現役でいったのですか?
渡辺さん)僕は4浪しましたね。
山田)東京芸大と言えば、もう何浪もというのは当たり前なのですね。
渡辺さん)同級生に一番多いのが4浪だったので、別に特別なことではないですね。
ひきこもりのきっかけは居場所の喪失と、人から裏切られたという思い
山田)ひきこもりのご経験があるというのは、どのタイミング、どういうきっかけで起こったのですか?
渡辺さん)僕は東京芸大在学中にうつ病と診断されたのですが、メンタルの不調で大学を足かけ2年間休学しているのです。大学院に進学したりとか、1年間研究生で残ったりもしたのですけれど、東京芸大を出た夏に2年間ひきこもり始めちゃったのですよね。足掛け3年ですね。
山田)何かきっかけっていうのはあるのですか?
渡辺さん)いくつか理由があるのですが、それらの共通項としては居場所の喪失というのが言えるなと思います。個別に1個ずつ言うと、例えば大学時代に競争意識みたいなものがある中で、大学を出てすぐに自分の表現者としての居場所をつかむことができなかったのです。
発表のオファーが来ないと、なかなか展覧会がやりづらいということが現実にありますし、言ってしまえば美術大学なんて就職しない限り、アーティストとして居場所がない限り、自動的にニートみたいになっちゃうということもあります。
それから、自分の実家の中にあまり居場所を感じられる場所がなかったです。父親が曲者でして。僕は父親のことがあまり好きではなくて、いろいろやり返したいとか昔は思っていたのですが、あまりもう今は深追いしないようにしています。家の中では唯一、母親とは対話が可能だったというような家で育ったわけです。ですので、父親のいる実家に居場所をあまり感じられなかったです。
当時、僕は結婚まで約束したパートナーがいたのですが、自分が想定していた理想的な関係は、相手にとってはもうちょっと軽いもので(あったようで)裏切られてしまったということもありました。
山田)複合的に家での居心地の悪さもありながらひきこもられていた。その時はどんな気持ちで過ごされていたのですか?
渡辺さん)なんだろうな、「長い時間を掛けた自殺」というような意識はありましたね。もう二度と人と話をしたり、何かおいしいものを食べたり、会いたい人に会いに行くとか、お金を稼ぐとか、そういう社会参加することを手放していくというか。
それはちょっと残酷だけど、首をつったり練炭自殺をしたりするとかは、もう散々痛みを負ってきた自分が直接的な身体の痛みを得るのはもう嫌だから、だからそこにいるという時間を掛けた自殺をしようと思ったのです。
社会への怒りの体現というか、自分が一人ここで人生を無駄に捨てることはある種、社会への反撃でもあったのです。何日間かは鬱々として家の中で台所に行ったり、母と話したりはちょっとしていたのですけど、はっきりこの日、ということでは、やはり最初はグラデーションでしたね。後からよーく思い出してみると、そこにズルズルと入り始めた日はその年の海の日だったのですよ。それは覚えているのですよね。
山田)どんなことを覚えていますか?
渡辺さん)その日から、自分の子ども部屋のベッドで寝るということを始めた日だったのですが、数カ月後に自分の誕生日があり、誕生日も一人で過ごすとか、大晦日、クリスマスも一人で過ごすとかということがあったのです。
今YouTubeが流行っていますが、当時はニコニコ生放送というのが流行っていてコメントがリアルタイムに画面に流れるというカルチャー(がありました)。僕は日中やることがないから、ずっとインターネット漬けになってコメントを打ちまくるということをずっとやっていたのですよ。
あとは絵師。配信者に似顔絵を描いてあげるということをしていました。当時は配信者がノートパソコンを持って外配信するということが流行り始めた時期です。配信者も結構アウトサイダーで不器用な人間が多いです。クリスマスにどこどこへ行くとか、大晦日も一人で除夜の鐘を聞きに行くというような配信を大晦日に見ていた時に、僕の書いたコメントではないのですが、「最後に空を見たのは海の日だった」というコメントが流れるのを見ました。
反射的に、そこにある多くのコメントは似たような境遇(の人のものだ)ということを感じました。言ってしまえば、ひきこもりとかニートはそこのコメントを書いている人に多い。反転して自分を何と呼ぶのかということをその時初めて考えてしまった時に、これはひきこもりというのではないのかと。海の日からズルズルと外に出なくなって、大晦日に自分で悟ってしまったということがきっかけでしたね。
「膨らんで部屋の内側から爆発しそうな怒り」と、「救われたい」という、両建ての気持ち
渡辺さん)インターネットを介したその向こうには多くのひきこもりがいるのだなというのを感じちゃったのですよね。ひきこもった時のメンタリティは僕の場合は結構怒り系でした。僕の部屋は変な形の狭い5畳半でしたけれど、何か怒りが風船のように膨らんで、部屋の内側から爆発しそうなぐらいの怒りがずっとあるのですよ。
両建ての気持ちがあるのは、今すぐ僕が、生き生きと生きていけるように議論して説得するやつが自分の前に現れてみろよという社会への怒りと、何か挑戦とか挑んでいる気持ちもあるわけで、だからそれはどんどん自閉を高め深めていって、より社会のケアが届かないように自ら進んでいく部分と、どこかでやはり救われたいという気持ちが両建てで両方とも強まっていくのですよね。
だから俺は誕生日も一人なんだぞ、クリスマスも一人なんだぞ、大晦日も正月も一人なんだぞ、ほら、というような怒りがどんどん強まっていきました。
山田)複雑な2つの思いですよね。怒りの部分と、でも誰か俺を癒してくれ、救ってくれっていう。それは親に対する思いなのかもしれないし、その辺は具体的にどういうことなのですか?
渡辺さん)うちの母親は自分の家にひきこもりがいるという認識を、当然ある段階からし始めるのですけれど、しかしながら母親も心折れていて、それは仲の悪い夫とうまく生活がしづらいということを持続的に生きづらさを抱えた上で、更にその家が持っている関係の不和の中で自閉的に部屋に閉じこもってしまった息子に、自分もどう接すればいいかも、いよいよわからなくなって。
関われるのは自分だけだと頭ではわかっているのだけれど、もう扉もノックしないというようなことを何か月も母親はやってしまった。そこはどうにかならなかったのかよって今でも思うのですけれど。放置しちゃうという、その放置の在り方が。僕は毎日夜中の4時に起きて、熊が山から里に下りてくるみたいに台所を漁ることをやっていた。
冷蔵庫に何か欠かさないように置いてあり、それをしてくれるのはありがたいことなのですが、でも扉をノックしてくれないという直接的な関わりはしてくれないことにずっと腹を立てて、そのエネルギーは全部母親に怒りとしてまとまって向かうということに段々なっちゃったのですよね。
だから例えば、この社会は厳しくて履歴書に空白があったら、それだけで足を引っ張るというような全然他者の固有の事情には不寛容なこの社会で、僕がそうやって社会参加しない時間を自分で作ったのですが、どこか社会のせいでという怒りがある自分は、それが継続していくことに加担をしているのは母のせいなのではないかというあてつけのエネルギーを母に向け始めてしまいました。
山田)母にはその怒りを伝えたいですよね。どうやって伝えていたのですか?
渡辺さん)家で2、3回暴れました。扉を蹴飛ばして壊したこともありました。父親は全く寄り添う気持ちはないので、暴れるととにかく警察を呼んで、「連れ出してほしい」と。でも、うちの父親は息子の名前以外、息子について知らないしか言えないというヤバさがあって、最終的に警察官は「息子さんも大変そうですが、旦那さんも何か大変そうですね」と母親に言い残して帰っていくことが1、2度ありましたね。
居間の扉を蹴って壊しちゃったのですよ。今で言えば、僕なりのパフォーマティブなアクションなのだけれど、扉を開けようと思わなければ開けられないじゃないか。その僕がいる部屋の扉を開けるということを、ある覚悟を持って僕に対話を挑んできていないじゃないかということを(伝えようと)、母親が向こうにいる居間の扉を蹴破ったことがありました。
僕としてはひきこもって生きていくつもりがない。その上でひきこもっちゃっているのは結構やばい状態でした。もし回復できたとて、ひきこもった時間は絶対その後の人生に影を落としちゃうような気もしていて。
どうして、もう自分一人で解決できないのに、その社会への繋がる糸口は母親しかもういないのに動いてくれないんだ、という怒りには、本当にある種形を変えた柔らかな自殺的な部分もありました。例えば、温度をゆっくり上げるとカエルは煮だってしまう。
山田)気付かないうちにね。
渡辺さん)でも死ぬわけじゃないですか。結構そういうことを思いながらひきこもっていたから、暴れちゃいますよね。人生というか、命の話な気がして。柔らかく死んじゃっているじゃないかという怒りが。逆の方向から見たら、うだつの上がらない穀潰しに見えちゃうかもしれないけれど。
ひきこもりをやめようとしたのではなく、そのあり方を変えたら、ひきこもりが自動的に終わった。そして翌週に展覧会が3つ決まった
山田)ひきこもりを脱するきっかけはなんですか?
渡辺さん)父親がいわゆる暴力的支援団体とコンタクトを取りながら、いつその暴力的支援団体の職員が数時間後なのか、数日後なのか、数週間後なのかに来てもおかしくないということを、いよいよ母親が悟り、初めてドアの前で「どうする?」ということを語りかけて、対話が始まったということと、その語りかけてきた母親もまた、夫との関係にだいぶ疲弊しているということをギリギリ最後の力で言ってきたという日があるのですよ。
その日のうちに覚悟を決めたのは、安心して自分の望み通りに人生を捨てるという所作としてのひきこもりを続けることさえ叶わない、対話ができない相手に自分の人生を支配されるということは避けたいということと、僕は怒りと疲弊があったのですけれど、自分以上に疲弊している人が案外同じ屋根の下にもう一人いたぞということに気づいてしまうということがあったのです。それも母親なのですけれど。
僕は母親よりもポテンシャルというか、ちょっと賢いのではないかということを何となく気づく感じがありました。母親はプレッシャーがかかっちゃうと余力が減ってきてしまうタイプでした。僕は余力は減っているけれど、頭の回転が落ちないタイプなので。だから母親と相互的にケアし、今自分の持っている、考えるとか語る、言語化するという能力の財産性を、ここで生かすことが合理性ではないかと考えました。
どうやって僕が何に怒っているのかとか何が悲しい、何が辛い、どうして欲しいを母親と語り合うということをする、ひきこもりをやめようとしたのではなくて、そのあり方を変えたら、ひきこもりが自動的に終わっちゃうという状態が誕生しちゃったのですよね。お互いにとっての仮想敵じゃないけれど、父親との関係をどうするのかということですね。
山田)お母さんと対話が始まって、その後はどうなったのですか?
渡辺さん)不思議な話で、僕はひきこもりをやめた翌週には展覧会が3つ決まっちゃっていたのですよ。何か分からないけど、そういう奇跡みたいな。突然「そういえば、渡辺さん最近展覧会やっていないようですけれど、どうしています?」という連絡が来たりして。僕はスピリチュアルみたいなことは好きじゃないのですけれど、風が吹けば桶屋が儲かるではないけれど、自分が部屋の外に出ただけで何かが一巡して動いてきて、自分を後ろからポンポンと背中を叩いてくれたというか。それが一遍に3つぐらい起きちゃって、その時にはまだ実家にいたのですけれど、「じゃあ、もう勝負するか」という覚悟を決めました。
父親と衝突するので、倉庫代わりに使っていた親族がやっていたアパートの物を片付けてそこで暮らしました。父親と物理的に一緒に暮らしていくと病むので、もう相容れない父親とどう距離を取るかということで、倉庫代わりのアパートに身を寄せるようになって、そこで作品を作り始めていきました。父親と一緒に暮らさなくなってからは、作品は活き活きと作れるようになりましたね。
渡辺さんはひきこもりを脱したのち、10年以上にわたり、ひきこもり当事者との協働で作品を制作し続けている
山田)それからの新たな作品としては、どういうことをやり始めたのですか?
渡辺さん)ひきこもりを直接テーマに扱う展覧会で、僕が3週間の展覧会期の中の1週間、畳1畳サイズのコンクリートでできた家型の造形物に生き埋めになって1週間後にそこから出てくるパフォーマンスを会期中にやるとか。
それから、ひきこもりの人にインターネットで呼びかけをし、彼や彼女が住んで生活している部屋の写真を自分で撮影してもらって、それを僕が展覧会場や展覧会の権利を勝ち取って、ここにみんなの表現の場があるから、あなたが今そこで生きているその息吹を僕を媒介に使って、自分の部屋を見せたい人はよかったらどうぞと。
僕はひきこもりをやめる日に、自分の部屋の写真と自分の姿の写真を撮ったのですけれど、それはある意味では役作りとか場作りです。美術の舞台セットを作るためにひきこもった時間があったのだというふうな考え方の転換をすると、ひきこもった部屋の写真を撮るということは、ある種生きた時間を尊重するためでもあります。
そして、ある偏見の見方をすると単なるゴミ屋敷という目も、現代美術という懐の広い装置(では)、メディアにおいては、ゴミ屋敷といって単に掃いて捨てられないよ、その生きている生きざま全部、現代美術の鑑賞者は見てくれるよということを信じていて、そういう募集をしたのですよね。
山田)作品として、ひきこもりという3年間の経験を題材にしようと思い切れたのはどのあたりにあるのでしょうか?
渡辺さん)僕は自分の囚われも、つきものが落ちちゃったから、自分のことを知って(ほしい)というつもりもなかったのですよ。でも、どうして自分の経験を最初に入り口にして再起して、ひきこもりの経験を自分から語り始めたのか、ということは、例えば自分がひきこもりをやめた日の自分の写真を作品にしたりしたのかということは、ひきこもりの人、当事者と後に接続したかったのですよね。
ソーシャルな作品を作りたかったのです。そのために自分が何者なのか、自分の方から傷を開示しないのに、人の傷を見せてというのは失礼な気がして。そして信用できない人には心を開きたくないというのは僕自身がそうだったから、自分が何者なのかも赤裸々に、まず全部見せる、語ることということを時間をかけてやってきたということですよね。
ひきこもり続けた時、風穴を開ける何か変化が欲しかった。ほんのちょっとのことでも関わりを作りたい
山田)実際に壁を作って1畳の部屋に中にいたというパフォーマンスも、自分をさらけ出すといいますか、こういう感じだったぞというのを見せるということですね。
渡辺さん)それは自分のひきこもりをやめる経緯とか、そのメンタリティがどういう時間の流れだったのかを表すために、「津波」というある種、記号性を借りてきたり、自分がその扉を壊すという意味が何だったのかというような自分史を、演劇的に再演したりする。それはひきこもっていて心が傷つきやすいナイーブな状態ということでは全然なくて、だいぶしたたかにやれてしまう状態になりました。
作品によっては後に自分のキャリアが変わっていくと、大きな芸術祭とか美術館で、当時の作品をうちの展覧会のこういう文脈で出してほしいということが増えてきて、そこ(作品)に関わった人にいちいち合意確認を取るわけです。
出しますよということとか、こういうふうな見せ方にしますよと。そこでの連絡をなるべく丁寧にするようにするのですが、そうすると結果的に何ヶ月後とか何年後とかに連絡を定期的にしているのですよね。
渡辺のプロジェクトに参加したことをきっかけに、生活が変わりましたというような人は結構いて、特に部屋の写真を送ってもらうプロジェクトは、何か清水の舞台から飛び降りるような気持ちだったけれど、やって生活が変わって今はひきこもり終えて、当時散らかっていた部屋がこんなになりましたと言って、写真を持ってきてくれる人とか結構案外多いのですよね。
山田)先程渡辺さんがおっしゃっていた、お母さんとのドアの向こうとの対話が生まれてからいろんなことが変わっていったじゃないですけれど、そういった渡辺さんの作品作りに関わることで、何か新しい回路ができてガラッと変わってくるような人がいらっしゃるのかなと思って、今問いを投げかけたのですけれど、やはりいらっしゃるのですね。
渡辺さん)僕はひきこもりをしていた時に、ひきこもり始めるというトラウマの体現の状態と悪い安定期に続いていってしまい、変にバランスが取れてしまっていました。それが人によっては20年、30年の人もいるし、僕の場合は足掛け3年なのだけど、時間のバランスが取れちゃって、ひきこもり続けちゃったわけで、風穴を開ける何か変化が欲しかったのですよ。
人と議論をするでもいいし、自分の怒りなり思いをアウトプットするなり、そういうことが欲しかったから。ほんのちょっとのことでも関わりを作りたい。でも、僕は表立ってひきこもりを解決しますとか、ひきこもりが終わりますよということは基本一度も言ったことがないです。それを目的化してしまうと、今ひきこもっていることを否定してしまうし、僕は関わるとか対話するということ自体が目的であるようにしているのですよね。
山田)これから社会はどうあるべきだと考えていますか?
渡辺さん)現状の社会に課題が多すぎて、全然理想を語る段階に僕はないのですけれど、ひきこもりは自己責任であり、ひきこもるのは怠けであるような声を今でも僕はSNSで浴びちゃうのです。結構多いのですよ。
でもそういうことを言う人がひどいのかとみると、加害と被害は表裏一体で 自分一人で自分の問題を解決しろよと言われてきた人こそ、どうにか命からがら解決できたのであれば、それを自信にしていかないと、その後の人生やっていけないし、乗り越えられなかった人を叩くことで乗り越えられた自分を肯定していくしかないということは、やはりそもそもの背景に、人に対して優しくない社会があるわけです。
だから弱音を吐けるというような関係がもっとカジュアルにできた方がいいと思います。ひきこもっていても全然いいという見方をしないと。ひきこもる権利とかひきこもる選択肢が保証されないと、ひきこもらないっていう選択肢も立ち上がってこないということもあります。
ひきこもりが怠け甘えかというと、僕は何年かに一回コンクリートに生き埋めになるパフォーマンスをやっていますけれど、かなりきついので、じゃあひきこもってみたらどうですか、ということを思ったりはしますけどね。
―当事者との協働による現代アートを通じて「やさしくない社会」に警鐘を鳴らしたいー
この作品は、孤立孤独を感じている人々をメンバー募集し、スマホに取り付ける小型の望遠鏡を世界中に送りまして、それぞれの場所からそれぞれの月の写真を送ってもらいました。
この作品は、扉の裏側に実際にひきこもりの当事者と対面した日の様子の写真をライトボックス(の光)で見ることができます。ハグをするということは、いきなり距離ゼロになってスキンシップをするということなので、多くの場合ひきこもりの人はフリーハグなんか嫌いなわけですし、僕も苦手です。
けれど、あえて元ひきこもりの芸術家が、(現在ひきこもられている)あなたの街に会いに行って、既存のフリーハグって必要な人に届いていないし社会にある多くの福祉やある種の「やさしい仕組み」は、そこに届かない人のことがおざなりになるようなものが多いよね、という課題設定を持っている僕が、あなたの街に行きますよと(いう作品です)。
渡辺篤さん公式サイト(渡辺さんの作品がご覧になれます)
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