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VR流れ藻(18):SANRIO Virtual Festival 2023 (2)

 前回に引き続き、サンリオVFesの各公演の感想である。

memex

 memexのライブは、音楽をしっかりと聞かせるストレートなスタイルでありながらも、遊び心に満ちた演出が印象的だった。
 1曲目では、雫のように観客それぞれの頭上から落下した光が、足元で音を立てて広がっていく。予期せず観客を巻き込んでいくタイプの演出には驚きと一体感がある。2曲目(記憶が曖昧、3曲目?)では歌詞に合わせて一瞬だけフロアが水没して歌声も水中のようにくぐもり、意表を突く演出にほうぼうから笑いが漏れていた。
 そうしたいくつかのギミックや、背景的なエフェクトも展開されつつ、しかしあくまで出しゃばりすぎず、音楽に意識を向けることを妨げないものだった。聞いたのは初めてだったけれどさすがに音や歌声は素晴らしい。
 やはりステージに二人いると見栄えするもので、ぴぼ氏が何やら楽器をもぞもぞやっているのはちょっとかわいい。何をやっているのかわかったりわからなかったりするのだが、いずれにしても何かやっている雰囲気があるのは大事だと感じた。一方のアラン氏はのびのびと歌われていた印象。
 しっかりした音楽ライブという感じがあり、とても良かったと思う。

 ※後で知ったが1曲目のギミックはもう少し複雑な仕掛けだったようだ。その場ではどう遊んでいいのかよくわからなかった。こういうのはあまり説明する暇があるわけでもないし、なかなか難しい。

戊屡神ゆゆ

 サンリオコラボ、クロミちゃん単独ステージ。『Greedy Greedy』。サイトの説明も開始前アナウンスもなかったので、急にステージにクロミちゃんが現れたのでちょっと面食らった。
 鮮烈でスタイリッシュな、しかしあくまで愛らしいPVといった趣。非常に高品質で破綻がなく、楽曲と相まってキャラクターを魅力的に見せることに成功している。曲といいかっこよすぎません? クロミちゃんは昔マイメロのアニメに出てた子というくらいの認識だったのだけど、改めて聴いてみたいと思わせるだけのものがあった。独自の強い個性があっていいですね。
 少し残念なのは最後の方で描画負荷が非常に高くなる場面があったこと。少人数で見ていたのでおそらく観客側ではなく場面の負荷だと思うのだが、一度しか観ていないので確証はない。二回見たかった(他はだいたい二回見た)。

約束

 これもサンリオコラボ。『SHOW BY ROCK!!』から『惑星のダンスフロア』、なのだが先に約束さんご本人が登場、自己紹介と設定や観賞位置などの注意事項を丁寧にアナウンスしてから開始される。あまりに丁寧すぎてお人柄に感心する。ステージ上でのふるまい、大きな身振り手振りも印象的。演技的なふるまいはそういえば他であまり見なかった。トラッキングの問題もあるのか、ステージ上での動きは何だかもちゃもちゃした感じに見えがちなようなので、そういう意識も大事なのかもしれない。
 ライブ本編は非常に丁寧で質のよいアニメーションPVという印象。ステージ位置を基準とし、コマ割りのように複数の枠内に人物を出すなど平面的な展開をしつつ、随時飛び出すような動きをして意表をつく。本当にしっかりした出来でとても感心するし迫力はあるのだが、ちょっと「見せられている」感じがある。この点ではクロミちゃんも同じで、どういうことなのか他作品の体験と合わせて考えてみるとちょっと興味深い。
 なぜそう感じるのかというと「空間性が失われている」せいなのだろうと思う。これら2作品はいずれも元の空間を早々に捨てて別空間へ移行してしまっていて、観る側が以後動いていいのかわからない。また観客や観客席に干渉するような仕組みもない。あくまで観客は観ているだけという立場で、感覚的には3Dシアターなどに近い。別にそれはそれでよければよくて、ただ単に制作上の考え方の違いなのだと思う。
 最後には約束さんが行われているイベントの告知などもあった。今更ながらにVRCには本当にいろいろことをしている人がいるなと思う。

ピーナッツくん

 都合により後半だけ観た。
 ショートアニメ時代にラップが入ってたりした印象はあったのだけど、ラップ中心でステージに立つほどだとは知らなかった。ゆるゆるした感じのフリースタイルで楽しかった。
 内容とはあまり関係ないのだけど、人の少ないインスタンスで観たので、少ない観客とステージに一人という空間でぶっつけのフリースタイルという状況には変な緊迫感があった。演者の側には影響がない一方的な感覚で、ちょっと奇妙な状況ではある。

キヌ

 怒涛のごとく荒れ狂う表現。
 これをどう評すべきなのだろう? その小さな姿とは裏腹に、繰り出される表現はあまりにも荒々しい。開幕早々に用意されたステージは放棄され、新たなステージが生み出される。そして、メタバースの引力によって何もかもが膨張してゆく今、改めてここがどういう場所なのか定義しようと高らかに宣言する。言葉が放たれ、文字が吹き荒れ、光となって渦を巻く。列車が駆け抜けビル群が背後にせり上がる。混沌としたイメージと叫びの奔流。
 終わってみて、何だったのだろうと考える。バーチャルyouTuberの文化(あるいは「いのち」と言うべきなのかもしれない)とこのメタバースの文化は、時を同じくして並行的に発展を遂げてきた。いま多くの人々とその思惑が流れ込んでメタバースそのものが変わりゆく一方、バーチャルyouTuberはその流れを汲みつつも位相を異にするvTuberの文化にシフトしてしまったようにも思える。それゆえ、あえていまバーチャルyouTuberの存在を語ることは、それ自体が相互の始まりの時期に立ち返ることであるのかもしれない。かつて黎明期のおそるべき創造性がたしかにあり、それはこの宣言が、この作品が、このイベントが示すようにかたちを変えつつ今もなお生き続けているのだろう。

 と、一度はきれいにまとめたものの、どうもなんだか据わりが悪い。そのまま1週間以上あれこれと考えつつ書きあぐねていた。
 仕方がないので素直に白状してしまうと、言葉を扱う表現としてあまり好きになれないというのがまずある。そうした好みの問題だけであればそれで済むのだが、そうではない部分もあるし、どうも奇妙な点や責任の所在がはっきりしない点もある。総体としてそれらがぐねぐねと絡み合って何が何だかよくわからない。
 どうにかこうにか紐解いてみる。ひとつには詩の技巧が自分には判断できないというのがまずある。ここでいう詩というのは紹介に明記されているポエトリーリーディングの詩のことだが、歌詞や普通の詩とも違うように思われて自分にはあまりなじみがない。いくらか調べてみたところでラップやら何やらと混在しているようでもあり、早々にジャンルの枠を見定めてそこからどうこう言えるものでもなさそうに見えて、判断がつかない。
 一方で、直観的には言葉の表現としてどこかぎくしゃくした印象を受ける。率直に言うとあまり好きではない。ただ音と合わせて捉えればそれが持ち味のようにも思われるし、これは個人的な印象や好みの話に過ぎない。
 奇妙なのは文字オブジェクトのことである。これは他の演者も観ての話になるのだが、歌詞として表示された文字オブジェクトを派手に動かすことへの個人的な忌避がどうやらある。説明が難しいのだが、食べ物で遊ぶんじゃないよ、みたいな気持ちに近い。そんなこと言われてもつくる人も困ると思う。ある種の言語表現への信仰なのかもしれず、お米を雑に扱うと日本人めちゃ怒るくらいの話かもしれない。ひとつの表現としては決して否定するようなことではなく、むしろ探求するに値することだろうと思いつつ自分で困惑している。
 困惑ということで言うなら、エフェクトのかかった音声が非常に聞き取りづらいというのもあった。聞いていて苦痛になったので1回目は半分がた内容を理解できていなかったのだが、フレンドに尋ねてもぴんと来ないような反応だったので個人的な相性かもしれず、これもよくわからない。ただ開幕直後についてはステージ側の音源と電話機側の音源の位置がかぶる関係で音のバランスがおかしくなっていたのではないかとは思う。HMDはIndexなので環境としては特に変わったものではないはずである。

 全編を再確認することはできないのであいまいな記憶に基づくしかないのだが、内容としては詩とはいうものの宣言や檄文に近いような印象を受けた。立場によってそこに深く感じ入る人もいるだろうし、冷ややかに見る人もいるかもしれない。わたし自身は半々といったところだろう。創造は偉大であり、敬意を払うべき人々や何かを成す人々は過去にも今にもたくさんいて、そうやって今のメタバースがあるのはたしかだ。そこにはまた普通の人々がいて、また暗い影のような人々も存在する。そしてそれらははっきりと分かたれるわけでもない。「いつだってそうだ」し、メタバースだからそうだというわけでもない。
 世界を形作ってきた歴史はいつも地層の中に埋まっていて、思わぬ時に足元から顔を出す。いったい自分がどのような歴史の上に立っているのかを知ることや思い返してみることは大切だけれど、そうした来歴を他者に説明し共有することはとても難しい。少なくともわたしにはそれをうまく語ることはできない。語ろうとして、半ば耄碌した老人の繰り言のようになってしまうのが落ちだろう。だからもしもきみに興味があるのならば、ほかに語れる人を探すほうがいい。風の噂によると、もはや忘れ去られたとある古いワールドのpublicに年代物の美少女の姿をした古老がいて、はるばる尋ねて来る者にはメタバース開闢からの長い長い歴史を謡い起こしてくれるのだそうだ、縄の結び目を手繰りつ手繰りつ……これ何の話だっけ?
 ええと、つまり、平たく言ってしまうとちょっとハイコンテクストで、表現として受け手個々人の立場での思い入れに支えられるところがあるのではないかという話なのだった。周囲で観ていた人々の熱っぽい口ぶりの中にそれを感じて、わたし自身は逆に醒めた。これをここでやることには意味があるし、単純に見ても面白いと思うのだけれど、何かもやもやしたものが残ったのはそういう文脈を理解はできても完全には共有できなかったからなのだろう。でも、そうした矜持は本当に大切なものだと心から思う。


 どうにか着地したようだ。このあたりで終わりにしよう。
 B5、ALT3についてほんの少し書きたいことがあるのだけれど、公演そのものはほとんど見ていないので公演に対する感想ではなく、ごく個人的な体験のことになる。また気が向いたら書くかもしれない。
 すべての演者、関係者の方、おつかれさまでした。



  


 


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