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photo#02 : 対象をあまり見ていない

 なぜ写真を撮るのだろう、と考える。
 考えざるを得ない、というほうが正しい。山道を歩きながら、なぜこんなことをしているのかと考える。背中の機材が重い。今日はやっぱり望遠レンズは置いてきてもよかったのではないかと思う。探し物は見つからない。なぜこんなことをしているのかと考える。
 街へ遊びに出ようとして、鞄にカメラを入れておく。たぶん使わないだろうと思って、実際使わなかったりする。あるいは思いがけず使ったりして、あるいは別に撮るほどでもなかったなと思ったりする。なぜこんなことをしているのかと考える。
 カメラを持ち歩くということは、軽量な機種であってさえそれなりに負荷のかかることだから、持ち歩くにはそれなりの覚悟、あるいは理由みたいなものが要る。ただ楽しいから、というなら別にそれでもいいのだけれど、やがて楽しくないこともいろいろとつきまとうことがわかってくる。スマートフォンでもいいんじゃないの、と思う場面だってあるけれど、そこはまあ普通のスマートフォンでは撮れないものというのはたくさんある。だからカメラを持ち歩かざるを得ないとして、話は結局何を撮るのか、なぜ写真を撮るのかということになる。
 
 写真というものの第一義は記録だろう。
 目の前にある風景、像を写し取る。自分が出会ったものや出来事をただ記録しておくという、個人的な記録。あるいはそれを誰かに伝えるための、共有される記録。共有を目的とした写真の最たるものは報道写真などだろう。商業的な写真など、もっと意図的に何かを伝えるための表現に寄った写真もある。芸術写真というのもいろいろあるが、さまざまに変容しているとしても基本的には像の記録であることに変わりはない。抽象写真となってくると単純な像の記録であるのかはあやしくなってくるが、それはいわゆる普通の写真として撮影されるものではないだろうから、ここでは措いておく。
 みなそれぞれに出会ったものを撮る。わたしは植物を撮っている。植物のことを記録している。いつ、どこに、どのようなものが存在していたか。咲いていた、果実をつけていた、ただ葉を茂らせていた、芽生えていた。それはどのような姿であったか。葉の形がどうで、葉の裏に毛が生えていたか。
 葉の裏に毛が生えていたか、と聞いて、ちょっと怪訝な顔をする人もいるかもしれない。植物の毛の有無は識別上かなり重要なのだが、実際そこまで写真に撮るのは難しい。よほどの剛毛でもなければ、マクロでじっくり向き合ってようやく捉えられるかどうかというくらいで、知りたいだけならただ触ってみたほうがよほど早く、しかし触った印象というのは写真には残せない。かろうじて撮れたところであまり人に見せて面白いような写真でもないので、そういうのは自分用の記録ということになる。
 知らない植物をきちんと識別、同定するのは難しい。花実のない時期ともなると、図鑑を片っ端からめくってみても確証が持てないということがよくある。いわゆる「絵合わせ」による同定の限界で、そこから先は個々の特徴の記述をきちんと突き合わせることが必要になってくる。葉の生え方、大きさ、形の特徴、脈の出方、毛の有無、その他いろいろ。なのでわからないものはとりあえず写真に撮っておくのだが、何も考えずに撮るとこうした特徴が表れない写真になって結局後で頭を抱えたりする。

おそらくホソエカエデ。山道を歩いていたら緑色の樹皮に出くわして一体何かと驚いた。
緑色の樹皮をしたカエデ類はウリカエデ、ウリハダカエデ、ホソエカエデがある。
識別点はいくつかあり、ウリカエデとホソエカエデは葉裏の葉脈の分岐点に水かき状の薄膜があるというが、この写真ではそれらしいものがどうやらありそう程度にしか写っていない。いずれにせよウリハダカエデは葉柄が緑なので除外、ウリカエデは葉が小型などでホソエカエデと思われる。

 頭を抱えたことがあるのでその辺いくらか考えて撮るのだが、そこでは「撮ることによってようやく意識的に見る」という現象が発生している。頭の中にチェックリストのようなものがあって、例えば葉が互生か対生かわかるように撮る。枝ぶりや葉の形がわかるように撮る。樹皮も撮っておく。ついでに葉の感触や香りもチェックする(べきなのだが、これは撮影外のことでもあってよく忘れる)。撮ることは記録であると同時に観察の手順の大枠にあって、意識的に見る行為と結びついている。

おそらくイソノキ。葉が互生か対生かでいうと互生なのだが、葉序(並び)は変則的。
左右交互ではなく右、左、左、右、右、左と出るコクサギ型葉序。

 市街の道端、荒れた駐車場の隅に何だか見慣れないものが生えている。
 通るたびに眺めみて、たくさんついた五角形のつぼみからおそらくアオイ科の何かだろう、近々咲けばわかるものと放っておいたら、ついにその辺りに行く用事がなくなってしまった。
 とはいえ一駅そこらの距離ではあるので、酷暑の中ぶらっと散歩がてら見に行ってみた。ようやくたどり着いて見てみると、あれから二週三週経ったのにひとつも咲いていない。もう種ばかりが爆ぜている。そもそも最初につぼみだと思っていたのは、どうやら若い果実なのだった。しかし仔細に見ていると、それとは別に花殻やつぼみがまだ少しある。なのに咲いている花はない。なんだか奇妙な具合である。
 考えているうち、どうやらこれは一日花であるような気がしてきた。訪れたのは午後遅い頃合で、いつも通りがかるのも午後ばかりだから、咲いている花に出会うことがなかったのだった。

 しかし、これでは判別がつかない。とりあえず撮りながら眺めていると、今更ながらにずいぶん特徴的な葉であるような気がしてくる。長い鉾型の根元が左右に張り出して、全体にゆるゆるとした鋸歯がある。こんなにゆるい鋸歯もあまりないのではないか。なんだこれ、アオイ科って普通こんな葉してたっけ。
 帰ってアオイ科の雑草を調べてみると、すぐにそれらしい葉に行き当たり、おそらくヤノネボンテンカだろうということになった。矢の根は葉が鏃型ということだが、鏃型と言われるとうーん、まあそうなのかな、くらいの印象ではある。分類としてはヤノネボンテンカ属であってボンテンカ属ではないのだという。梵天というとインドあたりの出かと思うが、どちらも別にそうではない。なんだか印象のふわふわしたやつなのだけど、こうしてとりあえず不明は解決した。花を見損ねたのは心残りで、かといってもう一度行くほどでもないだろうというくらいのものである。またどこかの路傍で出会うこともあるかもしれない。
 そういう次第でこの件、何度も見ているようなものであっても実は細かい特徴なんて少しも気付いていないことに、自分でもすっかり呆れてしまった。とはいえ人間そんなものだろうとも思う。

 別に植物に限った話ではない。昆虫でも鳥でも動物でもよいし、乗り物の類でも人間でも、何でもよい。対象を意識的に見るために、あるいは改めて対象と深く向き合うために撮る。ただ美しい像を追うのでもなく、ただ記録と割り切るのでもなく、対象、ひいては世界を理解するための足掛かりとして撮影する。それが写真を撮ることの、ひとつの理由であり面白さなのだろう。


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