見出し画像

健常者や定型発達は『正しい』のか

※2840文字


私は昔、アスペルガーグレーゾーンと思われる彼氏と同棲していたことがあります。
その時に、Twitterで専用のアカウントを作り「カサンドラ」で検索してアスペルガーの夫と暮らす女性や、アスペルガーと診断を受けたひとたちとしばらく交流してました。今回の記事では、そのとき不思議に思ったことを書いてみます。

そもそも自分は何なのか

健常者とは
障害者・病者に対して言われる表現で、特定の疾患を抱えておらず、日常生活行動にも支障のないひとのことである。
発達障害者は障害者基本法上の「障害者」には含まれてないと判断されているが、日常生活行動、とくに対人関係(コミュニケーション)や物の管理などといった面において多少なりとも支障をきたしている場合が多く、障害者自立支援法の対象には自治体の判断によっては含まれる場合もあることや、精神障害の一種との見解が示されるケースも出てきていることなどから、発達障害者に該当しない者をさらに区分して「定型発達者」という場合がある

by Wikipedia

私は今のところ家族から「発達障害なのでは」と疑われたことはなく、心療内科へ通った時にも病名は告げられなかったし、通院回数もほんの数回です。
それでも自分が『健常者』なのか非常に疑わしく感じる。
だって、家族全員が発達障害だったら私がまわりのひとよりおかしくても「おかしい」って思わないだろうし、病名が告げられなかったのだって、そういう治療方針のお医者だっただけかもしれない。
なにより自分の生活を省みたときに「日常生活行動に支障がない」とは言い難い。

ウィキペディアによれば「特定の疾患を抱えておらず、日常生活行動に支障のないひと」は健常者らしいけど、じゃあ、特定の疾患はないっぽいけど日常生活行動に支障があるっぽいひとは何なのだろう。

というかそもそも、日常生活行動ってどこからどこまで出来ていれば「支障がない」と判断されるのだろう。

それに、いろんな技術が発達して「苦手を避ける方法」や「苦手を避ける生き方」を模索しやすい世界になっていると思う。だとすれば、今度は発達障害だとしても「日常生活行動に支障がない毎日」を送れるようになる。
ということは、支障がないなら健常者なのか。でも、専門機関の診断により発達障害ではあったとする。だとしたら何なのか。
健常者の定義って、もしかして、とんでもなく曖昧なのでは。

自分のことを「カサンドラかもしれない」と思って作ったアカウントだったけど、わりとすぐに「私が発達障害やアスペルガーかもしれない」と思った。

健常者は多数派かもしれないけど、正しいとは限らない

Twitterでアスペルガー界隈のひとたちと少し交流したり、観察していたときに、すごくこわいと思う光景があった。

とあるアスペルガー男性が「妻と喧嘩をした」とツイートした際に、彼を責めたてる『自称健常者』がたくさんいたこと。私には『炎上』にみえた。
アスペルガー男性は謝罪し、どのコメントもアドバイスとして受け止め自分を変えたいと言っていた。
それが本心なのか、道徳的に見えそうな行動と判断してそうしていたのかは私には分からないけれど、とても健気に思えたし、逆に自分を『健常者』と思い込みひとりを袋叩きのように責め立てるひとたちはとんでもなく恐ろしくみえた。
アスペルガー男性が妻を傷つけたとして、それに関して『大勢で』責める必要はあったのか。妻の気持ちを『大勢で』代弁する必要があったのか。

『炎上』のような状況を作り出す人間が健康で『常』な世界は嫌だなと思った。
それなら『常』でなくてよいので、炎上に加担せず生きたい。

傷つけられた側に同情する気持ちは分かるけど、自分が新たな傷をつくる存在になりたいとは思えなかった。あと、自信満々に自分を『健常者』や『定型発達』だと思えるのは羨ましく感じた。多数派のひとってほんとうにいつも、自信満々。大勢で間違ったまま生きることのリスクなんてこれっぽっちも心配していないのか、「間違っていても許される。だってこっちのほうが人数多いもん」というおごりがあると思う。私も多数派のときそういう気持ちがわくから分かる。それにたしかに、どんなことも『正解』なんてないしどれも『正解』で『不正解』なのかもしれない。
仮に間違っていてもあとのまつりで、結局はやったもん勝ちみたいなところもある。

でも、自分が多数派だからといって、ひとりを大勢で責めてもいいという発想に陥ってはいけないと思う。多数派でないと戦えないひとは自分が少数派にまわったとき黙るのだろうか。それとも多数派の皮をかぶって自分を偽って生きていくのだろうか。それでは多様化が進んだとき何者になるんだろう。どうやって生きていくんだろう。
「正しさ」って何なんだろう。

好き嫌いで決めてもよいことを良い悪いで決めていたら、自分らしさってなくなっていくのではないだろうか。

私がみた炎上騒動の健常者や定型発達は『嫌い』だからアスペルガー男性を叩いたのだろうか。だとしたらどうしてあそこまで正義ぶれたんだろう。
それとも、『悪い』からアスペルガー男性を叩いたのだろうか。
だとしたら、アスペルガー男性が妻を傷つけることは悪いことなのに、自分たちがアスペルガー男性を傷つけることは悪くないのだろうか。

「正しさ」って何だろう。

「直す」「治す」「矯正する」

自称健常者や自称定型発達のひとたちが使う表現で気になるものがあった。それは「なおす」「正す」「矯正する」「普通は」という言葉たち。

そもそもアスペルガーは少数派なだけで壊れてない。
発達障害ともなるとものすごくたくさんの種類と程度があり、詳しいことはよくわからないけど私なんかは「もしかして、どのひとも気付いていないだけで何かしらの障害を抱えているのでは」と思ってる。困っていないだけで、そうかもしれないじゃん。って思う。

だから「なおす」と言って恋人や配偶者を叱責するのは大変迷惑な思い上がりなのでは。とおもった。

親子ならまだ分かるかもしれない。子を心配してそういう懸念をするのかもしれない。でも私がみていたのはカップルや夫婦だったので「なおす」って対等じゃない感じがしてとても不思議だった。対等を目指してカウンセリングを受けたりしていたんだろうけど、なんとも言い難い歪な執着や蔑みを感じる表現が使われているなあって思うことが何度かあった。

最終的に

そんなわけで、愚痴をこぼしたくてアスペルガーアカウントを作ってみたものの、おかしなアドバイスを受けたり、こわい炎上を目撃するのが苦痛でそのアカウントは消した。

結局のところ、相手や自分がアスペルガーなのかとか、発達障害なのかに関わらず「自分に相手を受け止める覚悟があるのか」というのがお付き合いに必要な要素だと思う。脳の機能を矯正してやろうなんて烏滸がましいし馬鹿馬鹿しい。
『良いところを伸ばす』これがいちばん平和的でよいのでは。
自分にもそうするので、人にもそうすることにした。

おわり

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?