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『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』ができるまで

本稿は、このたび刊行した書籍『わたしはラップをやることに決めた  フィメールラッパー批評原論』がいかにして生まれたかを、(備忘も兼ねて)記したものです。今回の書籍は、女性とラップにまつわるあれやこれやを、“カルチャー素材のサンプリング”と“論理のトリッキーな飛躍”という極めてヒップホップ的なアプローチのもと、平易なことばで、時にエモーショナルに書き連ねた断片集でもあります。それはまさに、日常や歴史の様々な破片を集め、リリックに落とし、現代口語を操りリズムを奏でる昨今のヒップホップやラップミュージックが取り組んでいる試みに対する敬意と憧憬から行われており、そのスタンスは本稿でも継承されています。(以下、DMの引用については掲載にあたりご本人の許可を得ています)

パンデミックに入り3、4か月経った頃、2020年6月4日にTwitterへ1通のDMが届いた。

送り主はKAI-YOU Premiumの編集長を名乗る新見直さんという方で、連載執筆のご相談だった。KAI-YOUといえばインディペンデント文芸誌『界遊』を前身に持ちつつ今は“POP”をキーワードに幅広いカルチャーを取り扱っているメディア、という認識だった。そのKAI-YOUがサブスクリプションサービスとして運営している姉妹プラットフォームがKAI-YOU Premiumなのだが、私はその時点ではPremiumについてはよく知らなかった。媒体資料が送られ一応説明をいただくも、メディアなんてものは何度もアクセスし時の流れとともに体感していないとその体温は分からない。取り上げるトピックやタイトルのつけ方、エディトリアルの切り口によって「ちょっと今日は筋肉質だな」と思う日もあれば「いつもより馴れ馴れしいな」という日もあり、そういった積み重ねで顔つきが決まっていく。(先日もオートチューン系VTuber ・温泉マークの作品がピックアップされたことが一部で話題になったが、KAI-YOUはそういったことを常に企んでいるメディアである)。ゆえに、申し訳ないが自分はPremiumをあまり存じ上げないことを伝え、だからこそPremiumというメディアに対する(媒体資料には記載されていない)思想や想いがあれば教えてください、と返信した。

6月5日、DMにて回答が返ってくる。以下、一部引用。

ジャンルの越境性というのは不可欠だと考えています。島宇宙で先鋭化して閉じていくものを僕自身はサブカルチャーと定義しており、メジャーだろうがマイナーだろうがカウンターだろうが、越境性を志向したものをポップカルチャーと定義しています。テーマについても原稿そのものについても、そうしたものを掲載してきています。例えば、これまで語られていない、記録されていないものの歴史をアーカイブするということが、未来に種をまく方法の一つだと思っています。
(中略)
つやちゃん様の「ストリートや俗世間でのうつろいゆく瞬間に生まれたものの中に面白いものがある」というお話で思い出したのが、斎藤環さんの臨場性についての論考でした。
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec
臨場性の暴力は言いえて妙で、CAが真っ先に通常営業に戻す宣言をしていたのは象徴的で、藤田さんはその点やっぱりかなりクレバーだと思いました。
https://ameblo.jp/shibuya/entry-12599389261.html
このエントリで彼は「一方で、リモートでは一体感、チームワークは損なわれます。また、リモートではかなり極端に成果主義、個人主義に振らざるを得なくなり、それは当社の根本的なカルチャーと相性が悪いです。それらは数値には出来ないですが、当社にとっては強みが失われかねない由々しき問題です。」と述べていますが、この中ではその強みが何なのか彼は説明していませんが間違いなく彼も、斎藤環とは別の感覚野で、臨場性の暴力を捉え、そして自社にはそれが必要だと看破しています。
他方、これはおそらく世代の問題もあるのでしょうが、斎藤環がオンラインでは情報の非対称性は起こりえないと言っていて、実はこれはそんなことはないだろうなとも思っています。表面上0と1に還元され情報量は確実に削ぎ落とされていますが、しかしその中で生まれ得る揺らぎにこそ焦点を当てたいと感じました。
(中略)
やはりコロナ以降、ある種の親密空間に回帰する流れが強くなっているように思います。
テレビやSNSでは強いアジテーションが飛び交っており、その反動であるとは思っています。ラジオやdiscord、もしかしたらyoutubeやtiktokも今後ますます重要性を増していくと思っています。

他にも徒然なる文章がしたためられていたのだが、中心となるのは上記の部分である。なるほど、臨場性とそこから生まれる揺らぎについて、か。私は次のように返信した。再び一部引用する。

斎藤環さんの記事、読んでみましたが面白いですね。臨場性については私も気になっています。それこそ、tiktokなどからはもはや従来の臨場性とはまた異なる新たな臨場感や身体性が感じられる気がします。それはもしかすると、斎藤環さんの仰っていることばでは捉えきれないものかもしれません。
カルチャーの生成・誕生にはいわゆるストリートにおける臨場性が必須ですが、ここで言う「ストリート」を「様々な人が街で部屋で道端で、交わり遊びを繰り返す場所」と置くと、まさにtiktokなどは今の時代のストリートであり、そこには必然的に臨場性が帯びているに違いありません。

その後も何通かやり取りし議論を交わしたうえで私が書いたのが、以下のTikTok論である。

このTikTok論を、私は次のような文章で結んでいる。

「.5」で震え続けるTikTokは、その許容性の深さとラフさを特権に、「2.0」と「3.0」の間を行き来することで芳醇な文化を抱え、今この瞬間もまた新たなキャラクターの揺れを生みだしているだろう。そこにはコロナ禍で我々が失ったストリート性がつぶさに観察され、まさにTikTokのロゴそのものの如く、ギラギラと震えたまま、生理的に/暴力的に私たちの目をくらませてくる。あなたのスマートフォンの画面の中で、小刻みに揺れながら、永遠にループし続けて。

本論をきっかけに、私は「.5」の自意識が気になりはじめた。ストリートとインターネットの間で揺れる“.5”、本音と建前の間で揺れる“.5”、女性と男性の間で揺れる“.5”……。“.5”の揺らぎに引きずられながら、編集長との議論が続く。次なるテーマは書籍化を前提とした連載のご相談で、何かじっくりと論じるべきものがあればぜひ書いてみませんか、という話だった。

時を同じくして、インターネットの端っこで興味深い動きが起こっていた。6人の女性ラッパーが突如“ギャルサー”Zoomgalsを結成し、SNSを局所的に騒がせていたのである。“インターネット性”なるものを包括したうえでの従来のストリートを超えた企み。男性性を捉えたうえでの旧来のヒップホップを乗り越えていく野心。そこには“.5”の揺らぎがあり、苦しみがあり、痛快さがあり、批評視点があった。私たちは、一つの回答を得た気がしたのだ。

ここで、2つのテーマが浮上してきた。私が当時noteでギャル論『ジャパニーズギャルの大研究』を公開したこともあり、編集長とはギャルカルチャーをテーマに書くか、女性のラッパーをテーマに書くかで議論がなされた。恐らく、どちらも書籍としては面白いものになるだろう。ただ、ギャルカルチャーがすでにいくつかの文献や言説を持ち合わせていた一方で、女性ラッパーはほとんど歴史的な検証がなされないままでいる、その事実が私を突き動かした。中でも、「Zoom」でvalkneeによって宣言された「あたし作るギャルの証言」というラインが決定的だったように思う。彼女たちがLAMP EYEというヒップホップの正史に自ら接続することで日本語ラップについての自己言及を果たしたこと。男性ラッパーを中心に置き女性を相対化させるこれまでの方法ではなく、女性ラッパーそれ自体が自律したアートとしてヒップホップを駆動させたこと。それはたとえば過去COMA-CHIによってなされたRHYMESTER「B-BOYイズム」の再解釈と近い試みでありながらも、複数人で手を取り合った女性が(ヒップホップカルチャーにとって極めて重要な条件を占める)“コミュニティ”を形成した点で、画期的だった。

書籍なんて企画されたとて実際はなかなか実現しないものだから、当初はひとまずWeb連載のことしか考えないようにしていた。彼女たちが行っているラップとは結局どういった営みで、時代(と歴史)にどのような意味を与えているのか。きちんとした文献にまとまっていないだけで、「ヒップホップにおける女性」という問題はインターネットの掲示板、SNS、雑誌のコラム等で実は様々に議論されていたと思う。ただ、それらによって私たちの価値観が着実に進歩しているという実感はあまりなかった。気がついたらいつもミソジニーやフェミニズムといった話に傾き、MCバトルやリリックについての周辺的な情報ばかりが充実していった。○○というラッパーのリリックはミソジニックだ、△△の発言は配慮に欠けており問題だ、等々。もちろんそれら議論はある側面においては重要だが、私はまず「ヒップホップにおける女性」ではなく「ヒップホップと女性」という目線で話がしたかった。男性と女性を対比させたり男性中心の中に女性を位置付けたりする前に、女性を主にヒップホップなるものを描いてみたい、というスタンスである。つまり、新たな歴史を書くという決意がなされたということだ。男性主流のカルチャーではなく女性のカルチャーが背景に描かれても良いし、ジェンダーの問いに飛びつく前に純粋に音楽として語られても良いはずだ。(もちろん両者ははっきり分けられるものではないが。)
実は音楽から一見遠いように思える文化背景を語り、一方で音楽にぐっと近づくアプローチで対象に接近すること、それら遠回りと近道は背中合わせで「音楽」を支えているのではないかという思いがあった。このあたりの詳細については以下に全文公開した書籍の序文に記している。

連載を進めるにつれて、自身の中で「ヒップホップと女性」というテーマに対する熱は非常に高まっていった。音源や文献等をディグりつつ、公私含め現場での様々な対話から発見を得ることになる。最も深く影響を受けた出来事として、担当した2つのインタビューを挙げたい。1つ目が以下の鼎談。

言語化が難しいが、グループやレーベルの壁を越えて共に音楽を作る3人のヴァイブス、会話の端々に横たわる愛が新鮮だった。音楽を通してつながった3人が生む信頼関係を目撃して、何か新しい空気を吸った感じがした。あぁ、女性ラッパー同士がこうやって連帯する時代が来たのだ、と。このヴァイブスを何とか世の中に伝えなければならない、何か使命感のようなものまで感じた。――仲の良さ?平和主義?互助精神?言葉にするとそれは陳腐なものになるだろう。ゆえに、言葉を駆使しながらも、少し言葉から距離を取りつつ香りをたてるように伝えなければならない。伝えるべきはメッセージではなくムードなのだ、そう思った。

もう1つの深い影響は、こちらのインタビュー。

感じたことはいくつもあるが、特に「ラップへの距離感」について、私は得も言われぬ感情を喚起されることになった。ヒップホップなりラップミュージックなりを一つの自律的なジャンルとして捉え背景を深く深く知ることが重要である一方で、それらルールや括りといった固定観念から時に離れることも同じくらい大切なのではないだろうか。極論、特定ジャンルに根差した音楽を、そのジャンル性から離れたうえで“何かしらの手段で空気を振動させた結果としての音の連なり”としてしか捉えないということ。あえて飛躍させ述べるならば、たとえばラップを“リズムを先導する声帯の振動”として考えること。ラッパーを「ラッパー」という狭義に縛り付けないこと。実はそのような偉業を成し遂げてきた女性のラッパー/シンガーは多く存在するのだ。

ヒップホップ史や日本語ラップ史をけん引してきた歌い手を聴きながらも、同時に一見ラッパーらしからぬ人たちについてリサーチを進めながら、なんとなく書籍のイメージは固まりはじめていた。これは「ヒップホップと女性」をコアに置きながらも、いわば広く「声帯を振動させることでリズムを先導してきた女性たち」による功績を編纂するものでなくてはならない、と。そのためには、できるだけ多くの優れた表現を集めて展示する必要がある。200枚以上に渡るディスクレビューは、そういった背景で生まれている。リズムから女性ラッパーを考えるためには、たくさんの対象が必要だったのだ。

連載が終わりを迎える頃、1通の新たなDMが届いた。送り主はDU BOOKSの小澤さんだった。フィメールラッパーに関する書籍を作りたいという依頼で、KAI-YOUの新見さん含め三人で話した末に、書籍はDU BOOKSから出していただけることになった。書籍についての私の構想に対し、お二人は賛成してくださった。そこから、ひたすら書下ろし部分を書いていった。とにかく音楽に耳を傾け、時に背景にある彼女たちのカルチャーを綴っていった。

私はガーリーなラップミュージックと同じくらい、実はマッチョイズムが詰まった古き良きヒップホップも好きだ。当初、その点は本書を書くうえで弱みになるかもしれないと感じていた。しかし、実際書いてみると、全くそんなことはなかった。男女で良し悪しを語れるほど、音楽は簡単なものではない。その偉大さを、たくさんの女性ラッパー作品そのものが教えてくれた。

フィメールラッパー批評は、今ようやく始まったにすぎない。早くも、私はこの「フィメールラッパー批評原論」を乗り越え次の地点へ進みたくてたまらない。今後、多くの人の多様なアプローチでもって女性ラッパー、ひいては「声帯を振動させることでリズムを先導する女性たち」は論じられていくだろう。近い将来、性別で音楽を語ることがみんな馬鹿らしくなるだろう。そうに決まっている。とにかく、まずは原論が出来上がって本当によかった。今夜は空が澄んでいる。明日もきっと最高だ。今私がそう思えることにも、素晴らしいラップの力が作用しているに違いない。

ラップが好きだという気持ちから、私は多分一生逃れられないのだ。(完)

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◆書籍に掲載した200枚以上のディスクレビューと連動して、135名のラッパー/シンガーによる135曲Spotify公式プレイリストも作成。ぜひ聴きながら読んでください。

◆書籍の中身はDU BOOKSのページで一部閲覧できます。すでにいくつかいただいている声から察するに、書き下ろした「ラップコミュニティ外からの実験史――女性アーティストによる大胆かつ繊細な日本語の取り扱いについて」や「新世代ラップミュージックから香る死の気配――地雷系・病み系、そしてエーテルへ」といった論考が好評のよう。やっぱりヒップホップとその外部とがせめぎ合うところに面白さが宿るのだ、という思いを改めて感じている。


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