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「利他」とは何か
を読んでいます。
伊藤亜紗さんと中島岳志さんの章を読み終わったところ。
どちらの論考もとても面白く、途中で「うわあああああ!!」と叫びたくなるくらい面白いのだけど、なぜ叫びたくなるのか、どういう風に面白いのか言語化できない。
けど、言語化できそうな話を少し。
中島さんの論考は、志賀直哉の「小僧の神様」という物語から始まり、贈与論、インドでの経験から親鸞の教えに繋がるのだけど、最後に「小僧の神様」の話に戻ってくる。
寿司一貫も食べるお金がない小僧の仙吉を見て、思わず体が動きそうだったAは一度ためらい、その後かわいそうに思い、次の機会に仙吉にたらふく寿司を奢ってやる。が、そのことによりAは嫌な気持ちに苛まれる。良いことをしたはずなのに、変に淋しい、嫌な気持ち。
哀れみを抱き、「善事をした」という変な意識、それにより、何かモヤモヤしてしまう。
ここを読む前に私もまさにモヤモヤしていたのだ。
その部分を読む直前、電車に乗っていた私は、2人の小さい子どもを連れたお母さんに席を譲ろうとした。
声をかけ、「すぐ降りるので大丈夫です、ありがとうございます」と言われ、また座り直した。
その座り直す直前、私は一度座り直している。
その親子の姿を認めて咄嗟に腰を浮かせた後、声をかけることをためらって座り直したのだ。
そして「やっぱり大変そうだな」「抱っこしているのは重そうだな」と考えた後、声をかけた。
哀れみとは違うかもしれないが、そこに自分で「声をかける理由)をつけてしまったことにより、「思わず」「咄嗟に」声をかける時とは違う感情が芽生えてしまう。
自分の中に沸き立つものとは別の、頭で考えた「これがベストだな」という思考で動く、何ともいやらしい感じがしてモヤモヤしてしまったのだと思う。
数ヶ月前、踏切でおばあさんを助けた。
杖をついたおばあさんが踏切を渡っていたのだけど、慎重に歩くためなかなか進めない。
車が横を通るたびに立ち止まってしまいずっと踏切の中にいる状態で「危ないな、踏切の向こうで自転車を停めておばあさんの手を引こう」と思った。
踏切内でおばあさんを追い抜き、自転車を停め、ロックしようとした時に警報機が鳴り出した。私はロックしようとするが、慌ててしまってうまく出来ない。おばあさんはまだ、踏切の中ほどにいる。
自転車を諦めておばあさんのところに駆け寄り、手を引く。遮断機が降りて、おばあさんは必死に歩く。遮断機の向こう側で、おばあさんの知り合いらしき人が外に出やすいように遮断機を押さえていてくれて、おばあさんも私も間一髪で外に出ることができた。
ふと「おばあさんの手を引こう」と思った時と、今日「席を譲ろう」と思った時との違いは「ためらい」と「思考」「理由」だ。
おばあさんの手を引く前、慌てて自転車の鍵がかけられず、自転車をそのまま置いておばあさんのところに向かう時にも「あー、自転車を放置したら盗まれちゃうかも…」と思ったけれど、それどころじゃなかった。必死だった。
理由も何もなく、体が動いた。
そういうことなのだろうな。
まとまらないけど。
踏切の一件は、伊藤さんが書かれていた「災害ユートピア」みたいなものかもしれない。
どうなるか分からない、危機的状況だけれど、それでも動かずにいられない。
それに比べ、今日の電車での私の振る舞いは「共感」という理由が必要だった。
私の中に「ずっと子どもを抱っこしているのは重くて大変だよね、分かるよ」という共感がなければ、席を譲らなかったかもしれない。
偽善だなぁと思う。
傲慢だなぁと思う。
利己的だなぁと思う。
それでも、それをやるしかないのだと思う。
偽善でも傲慢でも利己的でも自己満足でも、そんな自分にうんざりしても恥ずかしくても、やらなきゃやらないでモヤモヤするのだ。
自分の行いが利他か利己か悩むより、とにかく手足を動かすしかない、と伊藤さんもラジオで仰っていたし、不純な自己愛であっても“自力”を尽くせ、と親鸞も言っている。らしい。
さあ!次は若松英輔さんの章だよ〜〜〜
楽しみ!
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