大竹敏之さんと五色園と鯱もなか
元祖 鯱もなか本店の4代目夫、けんじです。
6月3日、Yahoo!ニュースに掲載され、ここ最近の大きな動きについて取り上げていただきました。
大竹敏之さんによる二度目の記事化は13年越し
大竹さんの記事のおかげでバズった当店
取り上げていただいたのは名古屋ネタライターの大竹敏之さんです。前回は昨年9月のこと。地元で有名人の大竹さんによる記事がバズったことにより、当店のことを多くの方に知っていただけるようになりました。
その大竹さんとの出会いは昨年2021年はなく、実は2009年にまで遡ります。
某遊び要素の強い書店にて
私は2006年から2007年にかけて某遊び要素の強い書店でアルバイトしていました。
そこは某遊び要素の強い書店の歴史の中でも比較的初期にできた路面店で、他店舗と比べても抜きんでた異質さが特徴の店舗でした。
扱う本も雑誌も漫画もCDも極端なアングラに振り切り、雑貨のチョイスは普通の人を寄せ付けないセンス、店内のPOPは放送禁止用語で埋め尽くされていました。
当時の一号店よりもはるかに激しかったその店舗は、今であれば上場企業の一端を担う存在として役割を果たすことはできないでしょう。
他の記事でも触れていますが私は当時パンクロックを志していましたから、そんなお店の唯一無二なところが最高にカッコイイと考え、プライドを持って働いていました。
当初は不愛想で怖い先輩店員がほとんどで気まずさも強かったのですが、ある時赴任してきた店長が兄貴分のような存在となってくれました。
残念ながらその店舗は2007年に閉店し、大学4年生で就活していなかった22歳の私はレコードショップ勤務のフリーターバンドマンとして社会に出ることになりました。
ある時、その兄貴分的な店長が新しく異動した店舗へ行った時、意気揚々と勧められた一冊の本がありました。
東海地方の珍スポットを網羅的に紹介したすごい本だから「必読」と念を押されてその場で購入しました。
この本を読者として読んだことが、著者である大竹さんとの初めてのご縁だったのです。2009年のことでした。
唯一の楽しみ「珍スポット巡り」が奇跡の種に
その後、結婚を考え就職したもののその先はとんでもないブラック企業でした。威圧や暴言や人格否定や長時間残業に侵され生気を失った私の唯一の楽しみが、当時は彼女だった今の妻との珍スポット巡りでした。
そして本を片手に東海地方最高峰の珍スポット「五色園」を訪れた時に、なんとその本の著者ご本人がいたのです。
目を疑いましたが、たまたま行われていた五色園のコンクリート像を修復するという不思議なイベントにそのまま参加することになりました。
この時に撮影した写真は私たちの結婚式のムービーで勝手に使わせていただきました。それほどに重要なできごとだったのです。
そして時はすぎ2018年。無事結婚し5歳になった長男と家族で、ある野外フェスに足を運んだ時のこと。たまたま近くにいた大竹さんと再会することになりました。
この時にはじめて大竹さんに「鯱もなか」のことを伝えた記憶がありますが、まさか継ぐことになろうとは夢にも思っていませんでした。
そして現在へ
お店を継いだはいいものの
そして2021年9月。夫婦でこの「元祖 鯱もなか本店」を継ぎ、WEBやSNSの改革など、聞こえはいいですが地道な仕事をコツコツ続けて、それでも大きな結果には繋がりませんでした。
とはいえ新たな挑戦が少しずつ芽を出し始めていたのは事実。この取り組みを少しでも世間に知ってもらえるためにはどんな方法があるのだろう。当時の状況を一枚の原稿にまとめ色んなメディアに送りましたが、これも反応はありません。
藁にもすがる思いでFacebookでつながっていた大竹さんに妻から原稿を送りました。
あの大竹さんが来てくれた!
すると大竹さんはすぐにご来店され、瞬く間に記事化してくださいました。そしてYahoo!ニュースが公開された瞬間に事態が急変しました。オンラインストアの通知がなりやまなくなり、とんでもない数のお菓子が売れていったのです。
その日を境に次々とマスメディアから取材が入り、当店の知名度はどんどん上がっていきました。
それからわずか9か月ほどしか経っていません。その中で次々と奇跡が起きています。そしてその連続する奇跡の第一回目があのYahoo!ニュースだったのです。
それってKI・SE・KI
そして、その大竹さんが一度目の奇跡から現在までの軌跡を記事化し、再びYahoo!ニュース化。
そこに広がっている景色もまた、涙でかすんでしまうほど素晴らしいものでした。
ぜひこの記事を読んでいただけないでしょうか?
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