私を育ててくれたもの⑥ 処世術で思い出すこと
今日はコミュニケーションについて考えている。
処世術は「世渡上手になるため」のものと認識されることが多い。
処世術というと、私は小学生のときの先生を思い出す。
以前の記事で紹介した「一に健康、二に行い」と言った先生である。
ある日、国語で習字を行った。
その日、清書して先生に提出することになっていた。
先生は「机の上にお手本を置かないように」と言ったので、
みな手本を見ないで書くのだな、と理解したと思う。
誰かが手をあげて先生に質問した。
「先生、下に置いて見て書いてもいいですか」
すると先生はこういった。
「その質問はせんかったことにしなさい」
みんなは「えーー」っという反応。
「その質問に答えたらもう見られんごとなる」と先生は言った。
法律にもよくある。どちらでもとれるような表現。
ではどっちなんだ、と突っ込むとそれまで曖昧だったことが明確になって、禁止される。
こうしたことが、処世術につながっているのだと私は思うのだ。
そのとき私は「聞かないほうがいいことがある」ことを学習した。
危ない橋は渡らない。やばそうなものは聞かないでおく。
――知らなかったことにする。そんな悪知恵を教わったのであった。
そんな悪知恵はそののち進化する。
高校生になり、私は通学定期で通っていた。今とはちがい改札口には駅員が立ち、一人一人の定期券の期日をチェックしていた。
「おはようございます!」
私は大きな声で改札にいる駅員さんに挨拶した。
「ああ、おはようございます」
駅員は私の顔を見て応えてくれた。
改札をすり抜けた私は、ほくそ笑む。
実は定期券が昨日で切れていたことに気づいて、とっさにこの行動に出たのだった。
電車に乗るときは、改札にいた駅員が見逃してしまったらしい。
私は味をしめ、駅員に見つかるまでこれを繰り返した。
決して真似をしないでくださいって言っても、もう今ではできないけどね。
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