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父の手紙②開戦、そして満州へ

 当時は谷製作所には6名の見習工が住み込んでいましたが、高等小学校を卒業して来た者ばかり。私は本を読む事や字を書く事では負けなかったのだが、習った事のない代数や幾何はどうしてもわからなかったし、小学校の算数なら教えてもらわずとも参考書さえあればわかる様になるけど、代数幾何は参考書だけではどうにもならなかった。
 中学講義録を取り、夜は一時頃迄必死に勉強したよ。そうした中、支那事変は益々深みに入り、当時の支那を後押ししていた英米に対する反感は盛んになるばかり。日本に対する石油の禁輸、そして英米に加えてフランス、オランダ、四カ国の経済封鎖等々、私達は政府の発表を鵜呑みにして打倒英米を決意していた。
 その様な世情の中で、私達少年達は予科練や少年航空兵などに志願したいと考へ、国への奉公第一と想ふ様になって来たのでした。
 昭和16年12月8日、運命の日の朝が来ました。
 私達は臨時ニュースと軍艦マーチで起こされ、ハワイ島での大戦果に酔いしれました。

 処が12月11日、谷製作所の所長である谷さんに召集令状が来て、製作所は閉鎖され、工場の機械と私達見習工は親会社である虫バルブ製作所に行く事になりました。当初、私はこの際福岡に帰って予科練に志願する考へで、それを大叔母さんに話したのですが、親戚の貴方が虫バルブに行かないと他の者も行く気がなくなるので是非行ってくれる様に、との事。やむなく他の者と一緒に虫バルブ製作所に行きました。
 それからは寮生活で、寮には約250名がいました。寮の生活が約1ヶ月程過ぎた頃、谷製作所から来た1人が前からいた工員と喧嘩をしました。その時、会社の寮長である舎監が
「お前達は機械と一緒に買った。機械だけでは10万など出しはしない」と言い(当時、旋盤機械が新品で約5000円、ボール盤で3000円しない程度)、「喧嘩などする資格はお前達にはない」とその者に言ったそうです。私は自分が喧嘩の当人ではないからその事を聞いてすぐさま舎監に抗議し、その場で辞めて帰郷することを告げ、その晩のうちに故郷へ帰りました。
 家に帰った時、父は何も言わなかった。
 やかましい父だから、さぞなぐられるだろうと想っていた私は意外でした。が、その代わり、予科練も志願させてくれなかった。

 昭和17年2月11日、シンガポールを陥落させた喜びの最中、私は満州に行くことにしました。今様に数へて15歳の3月4日、満州に渡りました。当時、大連に今二日市に居る迫夫婦がいたので、一応そこに行く事にしたのです。
 でも、姉とは小学校2年の時に別れたまま一度も会った事がないので、果たして会ってわかるだろうかと心配になりましたが、わからねば大使館に行って相談に乗ってもらえばいいやと考へていました。・・・が、すんなり会えればそれに越した事はないので、船から最後に下船すれば必ず会えると思い、その通り実行しました。姉夫婦は案の定心配そうに待っていた。残り少ない人影で尋ね人はすぐわかった。作戦成功でした。

 昔を想い出しながらここまで書いてみた。読みづらいと思いますが御判読下さい。
 激寒も峠を越え、春はそこ迄来ている様だ。
 梅香も益々自愛して思った道を失敗をおそれず進んで下さい。

                          2月11日 父より
 
このあとの話を私は聞くことができなかった。
父と過ごす時間はたくさんあったのに、戦争の話も仕事の話もしたことがなかった。もっと手紙のやりとりをしていたらよかったと思ってみても、もう遅い。
「親孝行、したいときには親はなし」 
先人たちの言葉は体験からきている。私の父の手紙を読んでくれた方々には、悔いの残らない時間をすごしていただきたいと願う。


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