見出し画像

私の宗教観のメモ

槃特教判


念仏他力は末世の方便
往相還相生死を問わず
現世往生して
来世無上等正覚を得ん

法華一乗久遠実成
娑婆の苦界は凡夫の道場
縁起空相釈迦牟尼浄土
至道無難唯嫌揀択

衆生の病は千差万別
平等妙薬、魔王の横着
差別の良薬扱いがたし
凡夫も菩薩も薬毒転倒
良医仏陀に助け請うべし

胎蔵縁起、金剛妙智
如来の両界、車の二輪
垂迹方便、遍満宇宙
仏智仏力疑うなかれ

提婆尊者は法華の開祖
前世の釈迦牟尼経王を授かる
提婆瞿曇は諸仏の表裏
億劫時空も畢竟空なり
そもそも菩薩に優劣なし
如来の諸法に優劣なし
ただ槃特の行に習い
自他の仏性育むべし

今の自分が至った見解をメモにしたものです。
私は本当の仏さまの教えが阿弥陀様の教えであるのか、
疑いの心が生じ、苦しい時期がありました。
しかし、自分はチューラパンダカの「心の塵を払う行」=「念仏」しかないと思い至り、二度と迷わないようにメモに書きました。
恐らく私にしかわからないものです。

私の心の基本にあるもので、備忘録的にnoteに上げることにしました。


晩学綱紀

これは4年前、統合失調症の陽性症状が高じていた時に書いたものです。
40代からの晩学を志す為に、学びたい様々な分野の学習ルールを法律的な文章に擬して書こうと思ったものです。

中二病的万能感と統合失調症の病的高揚感が感じられると思います。
まあ、自分の可能性・潜在能力にロックを書けないで、自分に縁のある物事の道をどこまでも究めていきたい。という気持ちは変わっておりません。
芥川賞と直木賞を両方取るとか失笑物ですが、「古今未曽有の快挙」をなにがしかの分野で達成したいという思いから書いたんでしょう(他人事)。

他にも夢いっぱいに目標を書いていますが、まずは英語の勉強を全うさせ、段階を踏んで社会復帰できるように頑張りたいと思っております。

それから、この4年間で大いに心境の変化がありました。
それは「他人を救うのではなく、まず自分自身が救われ、自分自身の行いや心を深めていくことが大事である。これ以外に世の中をよくする方法はない」と考えるようになりました。

そして政治・経済の人事に関することよりも、非政治的な文化・芸術の分野の充実こそが、人類の心の豊かさと、世界の平和と安定に役に立つことだと考えるようになっています。

人を責めるだけ、互いに正義を押し付けあうだけではギスギスした人間社会が出来上がってしまいます。

この記事をアップするのは恥ずかしいのですが、初心を忘れぬため自分自身が読み返す用にnoteにもアップしておくことにしました。



前文



詩編
上厚下薄の世を憂うるも、非力非才の身を慚じる。
単に今日に至る懈怠の報い、不徳不仁の身を愧じる。
貴種の裔にも非ず、一介の卑夫に過ぎざるも
晩年にして学を志す。

身を修め学を修めずんば、誰か言を信じ心を動かさん。
故に日録は向後我が為にのみ記す。
以下の条条を晩学綱紀と号く。
条文を国法に擬するは、平素より法文に親しまんが為なり。

病状は軽躁四日、抑鬱四日を反復す。
己が心を調えて、喜怒哀楽の過ぎたるを鎮め
心身を鍛練して、我初めて小人たり。
嗚呼大人の道の何ぞ難きや。

遼遠なり君子の道。
玄妙なり菩薩の行。
願わくは愚公山を移せるを範と為し、
槃特尊者の大悟のひそみに習わん。





関口不動尊に奉納する起請文


私は北伝仏教の信者である。
故に釈尊の説かれたところの教えを思惟の基となす。
原始仏典は釈尊の死後まもなく編まれ、
大乗仏典は菩薩行を説く大衆部の所依の経典である。
当然偽経(釈尊の精神に相容れない教え)も多く、
そこで、経典には釈尊の精神に則っている印のあることが求められた。

即ち三法印である。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静
の3つである。

生前の釈尊は
四聖諦(苦集滅道)を説き明かし
八正道の実践を説いた。
八正道とは
正見・・・正しく物事を見る
正思惟・・・正しい決意をする
正語・・・正しい言葉を語る
正業・・・正しい行いをする
正命・・・正しい生活をする
正精進・・・正しい努力をする
正念・・・正しく物事を考える
正定・・・正しい瞑想をする
という8つの実践である。

これらを完全に実践することにより、
人間は一切の苦しみから逃れ、
覚りの彼岸に度る事が出来るのだ。

しかしながら、これらの完全なる実践は私にとって甚だ難しい事である。そこで諸仏は私を憐れんで種種の方便を用いて導く。種種の方便は縁起によって己の中で一体となり1つの真実となる。そしてそれこそが私に一切の苦しみと迷蒙からの度脱と多くの福徳と大いなる安楽の境地をもたらす。

私はこのように聞いている。天台の教えにおいて如来の出世の本懐はひとえに法華経を説かんが為なりと。
またこのようにも聞いている。浄土の教えに教えにおいて如来の出世の本懐はひとえに阿弥陀如来の仏国土を一切衆生に広めんが為なりと。

如来唯一の出世の本懐に両義ありや否や
私は長らくこの問いに苦しむ。
だがしかし、これは私にとっては愚問であった。
毒矢を刺されて死にかかっている時にあれこれと問うて
助からず死んでしまったクシャトリアのようなものである。

何となれば救われるべき我が身はただ一人であった。

私は迷いの川に落ち込んで溺れていた。
釈迦如来が岸よりどんなことがあっても切れることのない法華経という名の命綱を投げてくれた。しかし、私は溺れていてその綱を身体に結ぶ事が出来ないでいた。

そこに阿弥陀如来が船に乗って通りかかり、自ら水に飛び込んで法華経の綱を身体に結びつけ、
「大丈夫だ。もう心配するな。私が岸まで必ず送り届けよう」と仰ってくれる。
釈迦如来も「御助勢有り難い。もう大丈夫だ。さあこちらからも綱を引っ張ってやろう」
と仰って、更に諸仏諸菩薩の加勢も呼ばれ力強く引っ張られて、私は九死に一生を得たのである。

故に私は法華経を「経王」とあおぎ尊んで、
己の至らざる時は南無阿弥陀仏と阿弥陀如来の浄土に帰ることを願うのである。

私はこのようにして安心を得たが、無常の世に有縁の人の悩み苦しむ姿を見て大変心苦しく悲しく思う。
しかしながら私自身が釈迦如来と阿弥陀如来の支えが無ければ一歩もまともに歩けない病の身である。

地球という1つの星で高度な文明を営みながら、人々は苦しみの中を生きている。互いに支え合う人もいるが、そうでない人も沢山いる。私は戦争とそれによって引き起こされる災厄を悲しむ。また争いを起こす強欲と傲慢を憎む。そして救われた身であるにも関わらず恩を忘れて迷い悩む我が身を慚じる。支え合うべき務めがあるにも関わらず精進を怠る我が身を愧じる。
魔に騙され、唆されて偽善・独善の行いを繰り返す我が身の愚かさを厭う。

故に私は今生の内に阿弥陀如来の極楽浄土への往相還相の廻向を受けた果報に感謝して菩提心を発さんと欲する。私に菩提心の種子があったのではない。無根の心である。阿弥陀如来の四十八の本願がなければどうして自力で菩薩の発願をし菩薩行の実践を行うことが出来ようか。

私は劣悪懈怠の凡夫であるが、如来より賜りたる菩提心を基として晩学を志すものである。



大日経にいわく、
菩提心を因とし、
大悲を根とし、
方便を究竟す、と。

私も諸仏諸菩薩の大威神力の助けを借りて
阿弥陀如来と釈迦如来により賜りたる菩提心を因となし、直心により色界の有り様を観察して大悲の根を養い、懈怠を戒め、不退転の覚悟をもって方便の実践を究竟せんと欲す。

私の願いは唯1つである。
一切の衆生が平等にして最上の悟りを得て安楽の境地に達することである。
しかし、私は阿弥陀如来の四十八願により菩提心を賜りたる菩薩である。故にその実践は阿弥陀如来の四十八願に基づいた実践でなければならない。

阿弥陀如来の四十八願は一切の衆生を救わんが為に建てられているが、但し書きがある。
阿弥陀如来の浄土に生まれることを願わない人は無理矢理極楽に往生させようとはしないということである。
極楽浄土はあくまで悟りを得るための修行の道場である。

従って自ら阿弥陀如来の願とは別の尊い願を打ち立て、
別なる修行法で無上等正覚を得んと志す菩薩及び
仏の教えを信じない者は除かれるのである。
私は異教徒の正しい道を歩む人は菩薩であると信じる。

キリスト教徒は聖書の道を進み、
イスラム教徒はクルアーンの道を進み、
安寧の境地に達し、永遠の天国に生まれることが出来る筈だからである。

それであるなら、彼らに阿弥陀如来の救済を無理強いすることは、阿弥陀如来の本願に反する行いであり、
私は己の信念に基づき尊い行いをされている全ての道の人に敬意を表したい。

また、無神論者も救済を無理強いするものではない。
仏教によって説かれるところの縁起によってその人は無神論者になったのであるから、私はその人の考えを尊重するだけである。

しかし、四十八願のただし書きに書かれた人びとが困っていたならば必ず助けの手を差しのべる力のある人間になりたい。また、あくまでそれは私自身の修行の一貫なので見返りに阿弥陀如来への信心を強制することはない。むしろそのような気苦労をさせるのは菩薩としては失格である。

さて、阿弥陀如来の四十八願により救済を除外された人々はまだいる。五逆の罪をおかした者と、
仏法を誹謗した者である。

一切の衆生は悉く仏性を持つが、この人達には仏性はない。涅槃経に説くところのイッセンダイである。
イッセンダイを菩薩が救済しようとしても絶対にイッセンダイは助からない。何故ならばイッセンダイは善根が全く焼け焦げたいのちであるからである。
また、イッセンダイは果肉を食べ尽くしたマンゴーにたとえる事も出来る。マンゴーには種子しかない。無理矢理かじっても不味い。地面に放って置くのが一番である。

と、いうのもイッセンダイにも仏の救いに預かる道がちゃんとあるからである。イッセンダイが自らの犯した罪の重さに恐れ戦き、心より慚愧する機が訪れれば、
その瞬間からそのいのちはイッセンダイではなくなるのである。

あたかも、数年前に放っておいたマンゴーの種子から新しいマンゴーの木が育ち実をつけるように、イッセンダイは新たなマンゴーの木として生まれ変わるのだ。

まとめると、
阿弥陀如来の四十八願とそれによって建立された極楽浄土はそこに生まれることを願う人を一切拒まない。
阿弥陀如来の本願は一切の衆生に対する救済の願であるが、衆生の意志を最大限尊重する。
また菩薩の意志も同様である。異教徒の人々にも、無神論者にも、縁起により関わり、人知れず助けているが、阿弥陀如来は一切誇らない。(実はこれは他の諸仏諸菩薩も同様である。)

私はこれらのことを深く心に刻み、慎重に行動したい。いのちの機根を考えずに独善的に衆生に道理を説く事は実に道理のない事である。また仏でなければ衆生の微妙な機根の際を見極められない。私はこれを心に刻み何人の内心の自由も犯さないことを誓う。

さて、阿弥陀如来の本願により浄土に生まれることの出来た他力の菩薩には大きな功徳がある。

①他の仏国土への自由な往来や一時留学
②同時に様々な諸仏への供養讃タンが可能である。

私は上記の大功徳を以下のように解釈する。

①は古今東西の賢者や哲人、聖人の言葉や
我が国仏教の八宗の教え、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教、道教、などの現在の世界宗教。
シュメール人の宗教やゾロアスター教、マニ教、景教などの古い宗教の自らの血肉にすべき素晴らしい点を従順に学び、相容れない点は敬意をもって遠ざけること。

②は智慧が深くなるに従い、様々な教えに通暁し、
誤解、偏見を乗り越え、様々な正しき道を歩む人に敬意を表することが出来、支え合うことが出来るようになること。

であると考える。
このような考えの元に私は混迷する世界において以下の提言をしたいと考えている。

①地球には1つの公共共同体が必要である。
②その共同体は決して現有のあらゆる共同体の存立を脅かすものであってはならない。
③紛争は地球唯一の公共共同体が責任をもって処理し、
共同体同士の争いは私刑として許さない。
④異文化、宗教間の関係は倫理と規範の両輪により、寛容であることを担保する。
⑤全ての共同体は1つの共同体の秩序の元、各々役割や個性に合わせて応分の権利と義務を担う。

この提言は凡夫のかりそめの案である。

私は今生の役目を全うすべく上記の愚案について念入りに調べ、検証し、善財童子の如くに諸々の世界の賢人、聖者に教えを乞い、至らざるところは矯めて已まず、
過ちを改むるに憚る事なく、その時どきの己の分限に応じて働く事をここに誓う。



私は少しく兵法を学ぶ。日本国の存続の為に軍事的にいかに防衛すべきか、机上の空論を弄ぶ。その危うきことは甚だしい。
そして学ぶにつれて最強の国家とは為政者と国民の強い信頼関係を築く事であると思い至った。

即ち為政者は忠恕の心を持ち、仁義礼智信の5つの徳目を修め、国民には謙譲の心をもって接し、法令は決め細やかに配慮され、整えられていて厳正に運用され、国民一人ひとりの権利と義務の釣り合いを取ることで平等性が保たれた国家である。

また、男女平等にかんしても同権平等は性差を考慮して両性に対して決め細やかな配慮をするべきである。
男女共に平等に取り扱うべき事柄と、男性・女性の性差によって配慮されるべき事柄があると考える。
両性が譲り合わなければお互いを傷つけ合うことになるし、男性原理と女性原理(陰と陽)が交わることによって森羅万象が成り立っているのだから、自然の法則に学ぶべきであると私は思う。

このように国家と国民が相和し、災害や困難に十分な備えをしていれば他国を侵略する必要は無くなる。
そしてどんなに狂暴な国が強兵で一人残らず虐殺しようとしても果たせず、返って他国より非難され、遺民からは末代までも恨まれ、天からは呪われる。そして遠からぬ未来に自らの国が滅ぶ。

しかし、私は日本国を愛するが故に平和を希求しながらも、自衛の軍隊を持つべきであると考える。
現行憲法では自衛隊は紛争地において「やるべき事以外は出来ない」というポジティブリストに基づいて行動している。イラクへのサマーワへの派遣もソマリア沖の海賊警備による派遣時も政治家達はポジティブリストを増やすことで対応した。戦闘は命のやり取りであり、一瞬の内に行動を判断しなければならない。ポジティブリストは現場の自衛隊員および指揮官への精神的な負担を大きくするものである。
そのために自衛隊を正式な軍隊と認め、紛争地において「絶対にやってはいけない事以外なら何をやっても良い」というネガティブリストに基づいて行動できるように改めるべきである。

また、アメリカ合衆国は重要な同盟国ではあるが、
建国以来、常に正義を貫いてきた国家だとは言えない。
かの国と友好を結ぶのは良いが国防・安全保障において
全て依存するのはあまりにも危うい。
国民には自主防衛の気概が求められる。
有道の国となり自主防衛の気概のある国家は無敵である。

そして悪政を行う国々とは交わりを絶ち、善政を行う国とは大いに交易を行い、かつまた互いの国の国力を奪わないなように相互に譲り合えば善き国との同盟は強固になり悪政を行う国々は孤立をし干戈を交えることなく屈するだろう。

このようにして、同盟を増やし同盟国の中で最も有徳の国が連邦の長となれば、天下は泰平となる。
日本国はその有徳の国になるべきである。
また、日本国は有徳の連邦の長となることも可能であると私は信じるが、それよりふさわしい国があるのならば必ずしも日本が長になる必要はない。
地球唯一の公共なる共同体の形勢にいち早く参画する事が日本国の平和と繁栄、すなわち「すめろぎのいやさか」に繋がると私は信ずる。


しかしながら、私は劣悪懈怠の卑夫として生きること四十歳。体力に優れるわけでもなければ、知力に優れているわけでもない。秀でた技芸もなければ、不徳不仁の器の小さな人間である。
脳には病癖があり、様々な誘惑にも弱い。
天下国家を論じる前に我が身を修めるべき人間である。

そこで以下の項目を学究する事を一生涯をかけて果たすべき目標としたい。

①応用情報技術者とその上位資格を取ること。
コンピュータや人工知能などに関する実務的な知識と技術を習得する事が目標で「コンピュータの五大機能、制御・演算・記憶・入力・出力」等の基礎的な技術に通暁することが早道と考える。

②D.B.Aを取ること
アメリカの経営学修士の上位資格である。MBAは国際ビジネスマンには必須の知識であると言われているがD.B.A取得を目指す人が世界的に増えているらしい。
アメリカンスタンダードが世界のデファクトスタンダードになっている以上、その流儀を学ばなければ彼らのビジネスの問題点も、日本の流儀の提案も満足には出来ない。

私は、なにがしかの事業で億万長者になり、両親の
仕事を継ぐのが夢である。両親は地元の山田町の文化の担い手である人々の人生や作品を文字化して本にする事が一番大好きな仕事であった。市井の人のどんなに小さな記録でも本にして国会図書館に寄贈すればその人の生きた証は永遠に残る。

しかし、印刷業は特殊印刷に特化するか、設備投資をして低コスト短納期化を図るしか生き残る道はない。
よって、他の業種で起業しなければ私の望みは達せられない。今は資本金1円で簡単に起業が出来るが、ベンチャービジネスや中小規模の企業が事業を継続するは大変に困難な時代である。

だからこそ、アメリカ式の経営学を学んでおかなければ、永続的な商売は出来ないと考える。


③英検1級、工業英検1級等、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、オランダ語、ヒンディー語、ロシア語、北京語、広東語、アラビア語の語学資格を全て取ること。
これもまた、グローバル社会で生き残るには必須なスキルである。特に話すだけでなくその国の文化様式を理解する事が大切だと思う。
迂遠ではあるがラテン語とギリシア語から学ぶとヨーロッパ系の言語の母語なので効率は良いかも知れない。
また、簡体字、漢文を読めることは五術の学習にも役立つはずだ。漢文に親しんでから以前より八字の簡体字記述が理解できるようになった。


④司法予備試験に合格し弁護士資格を取ること。
近年宅建士の試験を1度だけ受けたことがある。
そこで知ったことは民法の重要性であった。
仕事をしていて良いアイディアが浮かんでも、法律的にダメな時がある。そのような無駄な手戻りがないように弁護士なみの知識を身に付けるべきだと考えていたが、
司法予備試験に関しては年齢制限が無いらしい。
弁護士として活動することは無理かも知れないが、
どんな仕事でも関連法規に則らねばならないし、遺産相続やら不慮の事故やら日常生活の中で法律家のお世話にならなければならない時がある。
起業するのが夢であれば尚更であると考える。


⑤簿記、工業簿記1級を取ること。
帳簿に明るくないと会社の金を持ち逃げされてもわからない。
また、取引先の経営内容や利害関係者への適切な情報開示も出来ないし、経営の効率化も計れない。

⑥何とか大学に入り直し、文系、理系の博士号を取ること
これは、これから就職する業種に関する学部に入りたい。あるいは起業する際に学び直したい。

⑦芥川賞と直木賞を両方取ること。
芥川賞は純文学で新進無名の作家、直木賞は通俗小説で
実績のある作家がとるものである。二兎を追うもの一兎も得ずというが私は人の心を動かす修辞の勉強として小説という長い文学作品に挑戦したい。辛抱忍耐と体力勝負である。また、古典として読まれる人間の普遍性に迫る作品を書き、未来の読者との邂逅することに大きなロマンを感じるからである。

⑧数学と物理学を極めて核廃絶と温暖化防止に資する発明をし、ノーベル賞を取ること。
これは、このブログで日本核武装論を主張してきた私は、人生の中で積極的にこの問題に取り組みたいと思う。戦争犯罪史上最大にして最悪の行為が広島・長崎への原爆投下である。アメリカ合衆国は未だにその犯罪を悪びれずに正当化し、日本国民は戦争を引き起こした自分達が100%悪いと信じて疑わない。
これでは自国の国際的孤立を厭わずに自国の存立をかけて核開発を行った、または行いつつある国々の人々の心情を理解することは出来ないだろう。

アメリカは核の力を見せつけて、第二次世界大戦後の絶対的覇権国になろうとしていたが、マンハッタン計画にはソヴィエトのスパイが多数紛れ込んでいてソ連は原爆をわずか数年で開発させた。その後核保有国同士の相互確証破壊という危ういバランスで大国同士の平和は保たれるが、それは極めて偽善的な平和に過ぎず開発途上国やイスラム世界での代理戦争という矛盾が起きている。

私は軍事的にも詳しく核兵器時代の戦略を学びたいし、
核廃絶の為の具体的な施策についても学びを深めたい。
そして福島県が放射能被害克服の成功事例になるように物理や数学を学び直したい。

直接物理や数学を学び直せなくても、私は放射能との戦いに加わることをここに誓う。
温暖化と砂漠化についても同様である。

⑨千年万年経っても朽ちない言の葉を残すこと。
釈尊の言葉、イエスの言葉、ソクラテス、孔子の言葉。
聖人の言葉には叶うべくもないが、崔子玉の座右銘を読んだときに1800年前の人の言葉にこんなに心を震わせられることがあるのだと思った。
100年1000年という長い時を経て書き手と読み手が邂逅するということの不思議さにロマンを感じる。
私も俳句や短歌を嗜んでいるので志高く「この一句」を詠めるように精進したい。

⑩黒森神楽の演目で榊葉が踊れるようになること。
所作舞、武士舞という基本的な舞があるが私はそれすら満足に踊れなかった。擦り鉦すら棒打ちで神楽の拍子に合わせられない。
原因は筋力と柔軟性の無さと、重すぎる体重である。
また、動作IQの低さも大きなハンディである。
しかし、興味をもって運動を続けられそうなのは伝統芸能である。体力強化と老化防止の為に伝統芸能を学びたい。

⑪命・卜・相・山・医の五術を極めたい。
私は陰陽五行説は現代物理学に一脈通じていると感じる。また、仏教では釈尊は宇宙の有り様や死後の世界について説かれなかったし、般若心経では色即是空と説いている。
つまり、仏教や道教の教理の方が融通無碍で科学との親和性が高いと考える。
方便の実践のために私はこれらも学びたい。



これらの目標は1つひとつが達成する事は至難の技であるが、以下の幾つかの目論見がある。

①謙虚さと向上心を死ぬまで失わないため
②縁のある事柄を選り好みせずとことんチャレンジするため。
③挫折失敗があっても瞬時に気持ちを切り替えるため
④愛する人や愛する物事を心の拠り所にする(愛する人に過度に依存しない)ことなく大目標に向かって突き進む心のみを拠り所とするため
⑤いつの時代、何処の土地にあっても物事に通暁した人、かつまたそれが複数ある人は重宝がられる為

これらの5つの目論見がある。

そして、私は現在無職であるが、就職したら上記の目標より何をおいてもその担当業務の習熟にのみ精進することをここに誓う。

大目標の糸口は今この瞬間の実践にしかないからである。そしてその時々の分限に応じて目標達成の為に一歩一歩励んでいくことをここに誓う。

一身独立してはじめて人を支える事が出来る。
一身独立してはじめて人の心を動かす事が出来る。
人の心を良き方に動かしてはじめて有徳の国が実現し、
有徳の国が実現してはじめて一国の平和と繁栄が保たれ、その有徳の国が乾乾して諸国に働きかけることで
万国咸寧の世が到来する。

願わくは、
この世界が阿弥陀如来の仏国土の如く全ての人に安楽な世界とならんことを。
我もまた、その国土の一片の煉瓦とならん。


皇紀二千六百八十年 令和二年 一月二十日 大寒

日高梅月

山田の関口に坐す不動明王への起請文として記し
翌々日の甲子の天赦日にブログにアップする

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?