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昔のブログからの抜き書き


英語の雑学


①家畜名と食肉名の呼称の違いはなぜ生じたか。

1066年にノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服(ノルマン・コンクェスト)したことがきっかけで、その後イングランドの支配階層は300年間フランス語を公用語とした。一方家畜を育てる庶民は英語を話していたので家畜名はもともと英語由来の
ox 牛
swine 豚
sheep 羊
が用いられたが、領主の食卓にあがるとフランス語由来の
beef 牛肉
pork 豚肉
mutton 羊肉
呼称が食肉名として使用された為、家畜名と食肉名の呼称に違いが生じるようになった。
(wisdom英和辞典 161 beefの項より)

②発音しないkの音
knee, know knifeなどの単語ではkが発音されないが、かつてはknifeはクナイフと発音されていた。17世紀後半よりkの発音が次第に省略されるようになり現代に至っている。
(同 1012 knifeの項より)

17世紀には
1642~1649年 清教徒革命
1648~1658年 護国卿クロムウェルの共和政
1688年 名誉革命
と大きな社会変革が起こっている。地方貴族のジェントリ、新興地主階級のヨーマンの力が伸長し、旧来の支配層の没落、権力の入れ替えが進んだ時期にあたる。
新興支配層が文化の担い手になるにあたり、発音しづらい音は省略した方が合理的だと考えたからなのかも知れない。oftenのtの発音もオックスフォード大学の学生はオフトゥンと略さないで発音すると英語の授業で聞いたことがある。古式ゆかしい発音をすることは英国貴族のプライドなのかもしれない。

wikipediaで調べたことがあるがイギリス中世と近世の発音には大きな変化が起こっているそうである。その理由がなんであるかははっきりしていないそうだが、動乱期を経て文化の担い手の中心が変遷したことにより言葉の変化が起こったのではないかと私には思われる。

③古英語kin

古英語 kin noun
親族、親類、親戚の意
kith and kin で親類・知己の意

kind adjective 親切な、思いやりのある
は[親族(kin)が持つような感情]が語源

kind2 noun 種類 タイプ
は[語源は生まれが同じものkin]

king noun
王、国王
[語源は同族kinの長]

kinはゲルマン人の言葉から来ているようだ。部族の長がkingの起源。
皇帝Emperorは庶民からでも即位できるが、kingは血脈が重要視される。

紀貫之の娘の話

紀貫之の女(むすめ)
紅梅の内侍、紀内侍とも。

○鶯宿梅の故事
村上天皇の御代に御所の清涼殿の前の梅の木が枯れたので、代わりの梅の木を探すことになった。
都中探し回ったが代わりになるような梅がなく
当時は賑やかではなかった西の京を探させたところ
ようやく、一軒の屋敷に見事な紅梅の木が見つかり
「その紅梅を移植させて欲しい。帝の命であるから」と屋敷の主に伝えたところ、主人の女性が現れて
「よろしうございます。では、この短冊を枝につけて御所にお移し下さい」言った。

後日、御所にて帝がその紅梅をご覧になった時に、
枝の短冊に気がついた。
そこには

勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかにこたへむ
(帝の勅であればまことに畏れ多いことです。お受けする他ありません。でも、春ごとに訪れる鴬に「私の宿はどこへ行ったのか?と尋ねられたらどのようにこたえましょうか?)

と詠まれていた。
帝は権ぺいづくで梅の木を移させたことを恥じ
西の京に当意即妙にこのような歌を読む女性が
どうしているのか不思議に思い、屋敷の主人の事を
詳しく尋ねたところ、なんと紀貫之の娘であることが分かった。帝はいたく感じ入り梅の木を返したという。

参考文献
あうしゅくばい(古3)
勅(古708)

詔は大事に関する天子の命令で
勅は小事に関する天子の命令です。
律令が出来立ての頃は中務省が詔勅の起草に
携わりましたが、
薬子の変をきっかけに蔵人所が整備され、
次第に簡略化されていきました。

詔勅は当初漢語で書かれていましたが、
勅使が派遣先で大和言葉で読み上げるのを宣命といい、
宣命自体が「みことのり」そのものになりました。

これが段々簡略化されて後代宣旨、綸旨が主流になります。


広辞苑・漢辞海抜き書き

◎みどりご(広2821.4)
(新芽のように若々しい子の意から)3歳ぐらいまでの子供のこと。
◎緑児(リョクジ)(3099.2)大宝律令で定められた三歳以下の男児のこと。
◎緑女(リョクジョ)(同上)大宝律令で定められた三歳以下の女児のこと。

※1大宝律令での緑児・緑女の漢字表記は日本独自のものかもしれない。
また、みどりごは嬰児とも書く。

嬰(漢370上)
【一】(動)①まといつく ②取り囲む
【二】(名)①首飾り ②生まれたばかりの児

※2類義語として孩があるが、嬰はおむつの取れない赤子孩はやっと発声が出来るようになった赤子を指した。
六朝時代に(およそ4,5世紀あたり)嬰孩と対に使用される際に嬰は女、孩は男の赤子を指すようになった。

※3 説文解字によると嬰の上部の2つの貝は貝の連なった様でそれに女を加えて首飾りの意となった。
玉へんがつけば貴金属で作った首飾り。
瓔珞(ようらく)
糸へんがつけば冠のひもの意になる。纓
「絶纓の会」と言えば楚の荘王のその臣蒋雄の故事。


呉音・・・奈良時代以前に伝わった漢字の読み方。
呉越地方(南朝)の発音だと言われる。

漢音・・・隋唐時代の長安周辺の発音と言われる。
朝廷では漢音が漢字のオフィシャルな
発音とされ、漢音が日本では広く普及した。

唐音・・・宋、元、明、清代に伝わった漢字の発音。
椅子(いす)、行脚(あんぎゃ)、
提灯(ちょうちん)など。

宋音・・・宋代に伝わった漢字の読みで、禅宗の用語に
多い東司(とうす)など。

まず、紛らわしいのは漢音という名である。
漢王朝時代の発音ではなく、唐の長安の発音であること。丁度奈良時代のシナ大陸の標準語である。

だから呉音の方が日本に古く伝わった音で
律令国家の日本が国際標準の漢音に漢字の読みを改めることを奨励し、日本の漢字の読み方は一般的に漢音になった。

その後、宋代以降に日本に伝わった音を唐音と呼ぶようになった。

呉音は六朝時代の漢字の発音。
漢音は唐代長安周辺の発音。
唐音は宋代以降に伝来した漢字の発音。

発音の呼称と使われた時代のズレがあるので注意が必要である。

◎令和元年11月29日
舟中敵国(漢1180下)
シュウチュウのテキコク
人に背かれ、親しい者に見捨てられること。

(令和元年12月8日)
円機活法(広347上)
類書。24巻。明の王世貞が校貞。古典・故事・熟語・成句などを掲げ、作詩者の便宜に供した書。和刻本も多い。
荻生徂徠も活用したそうだ。ちなみに筆者は荻生徂徠についてほとんど知らない。確か徳川家宣の頃の儒学者だった筈である。漢詩を作るのに便利な本だったらしい。

類書(漢1566下)
①多くの書物の中の事項や語句を内容ごとに分類して編集した書物。
(広3107中)
①漢籍の分類項目の称の一。「芸文類聚」「太平御覧」など

漢詩が好きなのでこのような書物には興味が湧きますが、需要がないのでしょう。市場にはあまり出回っていないようです。

荻生徂徠(日183左)
江戸の人。柳沢吉保に仕え、綱吉にも進講した。
古文辞学をはじも江戸茅場町にケイ園塾を開く。
弁道や政談の著書を残す。

◎紀綱(漢1080上)
①要綱。物事の根本となる重要な項目。
糸には必ず糸口があり、網にはそれを操る綱があるのにたとえたことば。
②国家を治める法制度・おきて。綱紀。
③おさめる。管理する。

◎鄙夫(ヒフ)(漢1444.3)
①心が狭くいやしいもの
②自分を謙遜していう言葉

芬芳(フンポウ)(漢1191.1)
①芳しい香り
②立派な功績・名誉

座右銘(漢467.1)
いつも身近に書き留めておいて自分の戒めとする言葉


呉起(漢242下)


前440?~前381? 古代シナ戦国時代の兵法家。
魯、魏、楚に仕えた。
「呉子」の著者とされる。武経七書の1つ。

呉起(呉子)(世45左)
シナ戦国時代の衛国の人。
孫子と共に「孫呉」と並び称される。「韓非子」には「豪族の家には孫呉の書が蔵書としてある」と書かれるくらい戦国時代末期には著名な存在になっていたようだ。
時代下って漢書芸文志には「呉子四十八篇」と記されていて、現存するのは六篇のみである。(村山・孫子 Wikipediaに基づき筆者補注)

一、図国
乱世にあって戦争よりもまず内治の重要性を説く。
二、料敵
敵国や敵軍の情報分析の仕方を説く。
三、治兵
用兵術を説く。
四、論将
敵・味方の将軍の優劣の見極め方を説く。
五、応変
様々な場面における臨機応変の対策法を説く。
六、励士
兵士の人身掌握術を説く。

【呉起の生涯】
呉起は衛に生まれ立身出世しなければ衛には帰らないと母親に誓って魯の曾子(孔子の弟子)に入門した。
母親の訃報を聞いても衛に帰らなかった為に師の怒りを買い、破門されたという。
用兵の術を見いだされ魯国に仕官する。斉国が魯に侵攻した際に迎撃する大将に抜擢されるが妻が斉の女であった為に疑惑の目を向けられる。呉起は妻を殺して二心がないことを示し、斉軍を散々に撃ち破った。
ところが、母や妻に対する酷薄な風聞と讒言などがあり呉起は将軍を解任されてしまう。

呉起は魏の武侯、文侯の二代に仕え、武功を上げた。魏の西の辺境である西河の太守となる。このメモにある2つの故事成語は魏に仕えていた頃のものである。

ところが、魏でも政敵の讒言があり危険を感じた呉起は楚に逃れる。楚の悼王は呉起の才能を聞き知っていたので宰相として登用し楚国の行政改革を行わせた。
楚の門閥貴族の力は弱められ、楚の国力は奮い、兵を率いては斉、秦、三晋を脅かしたという。

悼王が死ぬとかねて恨みを募らせていた貴族たちは、好機とばかりに後ろ楯を失った呉起を攻めたが、呉起は王の遺骸のある宮殿に逃げ込み、王の遺骸に覆い被さった。呉起の身を貴族達の矢が貫いたがその矢は悼王の遺骸をも貫いていたので、策謀した貴族達とそれに連なる一族の者達は、新しい王の即位後に尽く処刑された。
(以上(村山・孫子)・Webサイト等参考に筆者要約)

吮疽之仁(漢242上)
センソのジン
大将が部下をいたわることのたとえ。

吮は口で徐々に吸うのを表し、急激に吸うのを吸で表す。
疽(漢955中)ショ 呉音ではソ
悪性のはれものを指す。

呉起は大将の身でありながら自ら兵卒の膿をすすった。
兵は感激して呉起の為に死を厭わずに戦ったという。

七書(漢5下)(シチショ)


代表的な7つの兵法書。
「孫子」「呉子」「司馬法」「尉繚子」「六韜」「黄石公三略」「李衛公問対」のこと武経七書(ブケイシチショ)

北宋の神宗が武官教育のために何去非に編ませた。
神宗は王安石を起用し、文弱な宋国の国政改革を断行したが、その一環か。

宋は唐代の節度使の権力拡大を警戒し、軍権を皇帝に集中させた。また、科挙制度を整備し、皇帝自らが官僚の試験を行った(殿試)。文治主義を採用し国内に兵乱は起こらなくなり、宋の経済は発展したが、遼や西夏という遊牧民族国家の軍事的圧迫に対し年毎に莫大な貢ぎ物を贈るという惰弱な外交を行って軍事面では弱体化した。

王安石は青苗法や保甲法、保馬法など新法を作り軍備強化や官僚の腐敗を糺そうとしたが、
司馬光(資治通鑑の編者)、蘇軾(詩人、豚バラ煮込みを東坡肉(トンポーロウ)というのはこの人の号に由来する。)
らが新法を激しく批判し、旧法党と新法党の党派争いが生じた。

◎孫子は曹操が注釈したもので孫子のオリジナルにあった戦法は曹操の時代には既に時代遅れになっていました。
戦場の花形は戦車戦から騎馬戦に移り、人馬ともに重武装した騎兵が活躍した時代です。

曹操は時代に合わないものは大胆に省き、より普遍性のある内容のみを残したので、世界各国の名将達の愛読書になりました。
七書の中で一番応用が自在で、スポーツやビジネス、学習法、仕事術などに活用できると思います。

一番は孫子ですが、抽象的で分かりづらいところがあります。
私は尉繚子を読んで大いに参考になりました。
また李衛公問対は唐の太宗と名将李靖の兵法に関する問答集で解説書として読めば分かりやすいかも知れません。
戦場という命のやり取りをする究極の場所で勝ち抜いてきた優れた先人の人間観察の書でもあります。
競争が厳しい仕事や、アスリートの方にもオススメしたい本でございます。

題烏江亭


杜牧
勝敗兵家事不期
包羞忍恥是男児
江東子弟多才俊
捲土重来未可知

◎杜牧(漢700上)(生没年803~852)晩唐の詩人。字は牧之、号は樊川。兵法も好み「孫子」に施注。
杜甫に対して小杜という。「樊川文集」

◎杜甫(漢700上)(生没年712~770年)杜工部。盛唐の詩人。「杜工部集」 杜牧に対して老杜、大杜という。

◎杜預(漢700上)(生没年222~284年)
西晋の学者・政治家。三国志の幕を引いた男。

(三国志ゲームのパラメータなら、
知力100 政治力100 武力25 統率95 魅力90
くらい個人的にあげたい存在。
もちろん春秋左氏伝をアイテムで持たせて、軍師にしたい。)

シナ大陸には
しばしば国家に対する大功を立てて、
かつまた付和雷同せず、諫言をする勇気を持ち
そして晩節を悠々自適に全うする輔弼の臣が登場する。杜預もその一人だと思った。
呉征討戦は「破竹の勢い」の語源にもなった杜甫、杜牧の遠祖であるという。

<i>①杜預は博学で物事に通暁し、興廃の明に長けており、常に「徳は企及を以てすべからず、功を立て言を立つが庶幾(ちか)きなり」と言っていた。

②「法とは、墨縄で筋目をつけるが如き存在であって、理を窮め性を尽くす類の書ではありません。ですから、本文は要約され判例は正しく、また省略は許されても単純化は禁ずるのです。判例が解り易く、且つ見易すければ、人々の知るところとなり、罪を犯すのを避けるでしょう。単純化されず犯し難いとすれば、刑罰を執行する回数は減るでしょう。刑の基は簡潔かつ廉直なことにあるのですから、道徳上の立場を明らかにしなければなりません。古の刑法は、鐘鼎に銘せられ金石に刻まれ(明文化することで)濫用を防ぎました。この法を用いる者は、最善の判例とともに裁判の趣旨を明らかにし、墨縄の真直さで在らしめなくてはなりません。」

③「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。しかし、今は違います。遠方のことについて、詳しく知ることはできません。人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。優劣を挙げるとすれば、各々監査する官を設けるに越したことはありません。毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。」

④「楽毅は済水の一戦で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるなら竹を割くようなものだ(譬如破竹、譬えるに破竹の如し)。数節(=15日を一節と数えることと、竹の節をかける)も刀を入れれば、後は手を使うだけでよい。」

(Wikipedia日本語版 杜預の頁より引用)




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