ポケモンと父親の背中
それは、まだ消費税が5%だった時。
それは、小島よしおが「そんなの関係ねぇ」と叫んでいた時。
それは、コブクロの蕾が車のラジオから流れていた時。
それは、ポケモンのダイヤモンド・パールというゲームが小学生のハートを鷲掴みにしていた時。
小学生だった当時の僕は、周りの小学生と同じようにポケモン沼にどっぷりつかり、そして、ポケモンのダイヤモンド・パールをプレイしていました。
そのゲームの序盤に、テンガン山という山を通ることになります。そこで遭遇したコダックがあまりにも僕の弟にそっくりだったために、僕はコダックを捕まえて彼と同じ名前をつけました。弟はそれが気に食わなかったのか、大号泣してしまい、父親にこっぴどく叱られた記憶が今でも思い出として残っています。
また、その弟の名前のコダックはゴルダックに進化して、そのあまりの変わりようにやや気まずくなってしまったのもまた懐かしい思い出です。
そんな僕の家庭は、いわゆる父親一強の家庭でした。基本的には「父親の言うことが絶対」というような空気が、家の中には流れていました。
当時の僕は調子こきなもんで、しょっちゅう弟をいじめて遊んでいました。しかし、いざ弟が泣いてしまうと、父親がかんかんと怒ってやってきます。その形相たるや。吠える犬も黙るほどの大声をあげて僕を怒鳴りつけました。そして思いっきり頭を3回殴るのでした。
それだから僕は父親のことがこわくてこわくて仕方がなかったのでした。父親の一言一言が変に気になってしまって。父親が、声を発しようものなら、怒られたのではないかとビクビクして、そうではないと分かればほっと一息ついて。父親に怒られないように、気に触れないようにと。そんな日々を過ごしていました。
それでも僕は、父親のことが好きでした。
父親とはよく、日曜日の朝にスーパーにたまごを買いに行きました。日曜日の朝限定で、たまごが一人につき1パック100円で売られていたのです。
スーパーは家から歩いて10分ほどのところにありました。スーパーは坂の上にありました。僕たちはエコバッグを持って坂をのぼり、たまごを2パックと牛乳を3本買って、坂をくだりました。弟が朝に起きれた時は、弟も一緒についてきて、たまごを3パックと、牛乳を4本買いました。父親は歩くのがはやく、いつも僕の前をずんずんと歩いていくのでした。そして、ある程度距離が離れると、僕の方を振り返って黙って僕を待つのでした。
父親はその買い物の時に、100円のポケモン指人形も毎度買ってくれました。
ポケモン指人形は当時、中身にどのポケモンが入っているか、あけるまでわからない仕様になっていまして、家に帰るまであけてはいけないという決まりだったので、いつもかけ足で坂をくだって家に帰りました。
毎週毎週、日曜日の朝が楽しみで仕方がありませんでした。つぎは、どんなポケモンの指人形がゲットできるだろう。そう思うと、次の日曜日が楽しみでした。
僕は当時、休みの日には、父親と一緒にお風呂に入っていました。僕はもちろん大好きなポケモン指人形をお風呂に持っていって、お風呂の中で父親と遊びました。
父親は僕にはできない、いろんな技を知っていました。
ある時には、父親はゼニガメの指人形を持って、みずでっぽうを繰り出しました。ある時には、スボミーの指人形の指をつっこむ部分を吸盤のようにしてお腹にくっつけて、すいとるを繰り出しました。
また父親は、時にはヒーローでした。
僕が小学1年生の頃、クラスの女子二人組にいじめられていた時には、父親は笑って話を聞いてくれました。そんなやつらはお前に比べたらよわっちい奴らなんだから泣くな。何か悪口を言われたら「このプリキュアが」って心の中で思っていたらいいさ。彼女らはいつも黒と白の服を着ていたもんですから、その例えがあまりにも可笑しくて。父親のおかげで彼女らの悪口がなんの気にもならなくなりました。
父親は鬼のようにこわくて、ヒーローのようにカッコよかったのでした。
いつからでしょう。
父親をそうは思わなくなったのは。
僕が高校生の時、隠れて友人たちと酒を飲んでいるところを父親に見られたことがありました。
父親は、当たり前のようにカンカンになって僕を怒鳴りつけました。当たり前です。未成年飲酒をしたのですから。
しかし、その怒鳴り声には、かつての威厳はもはや失われていたのでした。
顔を真っ赤にして怒鳴るその声は消えてしまいそうなくらいに掠れていて、時々裏返りそうになってしまうその声に何故か申し訳なさまでもを感じてしまう。声を上げるたびに鼻から覗く鼻毛がピロピロと揺れ動く。かつては、「その通りだ。」と思うほどだった理屈文句も、多くの矛盾や論理の穴を見つけてしまって、頭が悪いなと思ってしまった。父親も何かを察したのだろうか。最後にぼそっと「他人にだけは迷惑かけるなよ」と言ってしまうと、自分の部屋へと戻ってしまいました。
戻り際の父親の背中は、かつて見ていた大きな背中とは打って変わって小さくみすぼらしい限りでした。気づけば髪の毛はすっかり薄くなってしまって、なんだか足もかつてより細くなった気がする。
その時僕はもう、これまでの父親はいなくなってしまったのだと、そう悟りました。
以前までのこわかった父親も。かつてのカッコよかった父親も。
もう、僕は父親に怯えることもないですし、いじめられた時に笑い飛ばしてくれることもありません。
なんだか淋しいような、申し訳ないような、そんななんとも言えないどうしようもないこの気持ちの処理の仕方がわからず、次第に僕は父親と会話をしなくなりました。
先日、父親から久々に一通のLINEのメッセージが届きました。6年ぶりのメッセージでした。
「耳が聞こえなくなった。」
そのメッセージには、そう書いてありました。
耳が聞こえなくなった。僕は声に出して、一文字ずつ声に出して読みました。確かにそう書いてありました。
話を聞いたところ、40代〜60代にみられる突発性難聴のようで、完治するとのことだったので、ほっとしたのですが。
それでもきっと。
きっと急に人はこんな感じで耳が聞こえなくなるのだろうし、きっと急に病気にかかったり、歩けなくなったり、しまいには心臓が止まってしまったりするのだろうなと。そう思ったのでした。
確かに。
確かに、かつてのこわくてカッコよかった父親はもう、そこにはいないのかもしれない。
それでも。
今こうしてメッセージを送っている父親はまだ存在しているし、こうやって会話ができている。そして、そこにいる父親は紛れもなく、僕の父親なのである。
今度、地元に帰った時には、父親が大好きな日本酒を、今度は父親と二人で飲みたいなと。そう思いました。
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