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ポイ捨ては私たちの文化?その昔はSDG12だった...

今回はこのタイトルで記事を書きたいと思います。ポイ捨ては、残念ながら日々あちこちで見ます。ポイ捨てや置き捨ての瞬間、残されたそのゴミの状態、それは物理的なゴミと言う単純な風景ではなく、私たち人間の本心を物語っていて、未来の地球の姿でもあります。この記事を書こうと思ったきっかけも含めて書いてみましたので、しばしお付き合いください。

在宅勤務が4カ月ほどになり、ニューノーマルと感じていた生活が、ようやく普段の生活となりました。私の場合は3月中旬から完全に在宅勤務ですが、これから様子見ながら徐々に出勤かな、という状況です。なお、国連の事務所は日本の事務所とは全く異なります。日本の事務所のような”島文化”ではなく、”個室文化”です。しかも僕の場合は自宅から職場までは自転車通勤なので、通勤地獄は全くありません。コロナの影響が比較的少ない職場です。

さて、在宅勤務の日常としては、昼食後に自宅付近の遊歩道を1時間程度散歩するのが日課となっています。これが実にいいんです。「スタンフォードの自分を変える教室」の著者で健康心理学者のケリー・マクゴニガル氏や、多くの心理学者や行動学者が言っているように、何か考え事しながら運動すると新たな発想に出会える、と言うのが実感します。もともと運動好きの僕は、ここ数年サイクリングをしていますが、さすがに自転車のスピードだと走ることに集中していないと危険です。

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今回の記事のテーマは”ポイ捨て”です。つい先日、在宅勤務の習慣として昼食後に散歩していたところ、20メートルぐらい先を同じように散歩している年配の男性が、何かを拾いながら歩いていました。結構な頻度で、何かを拾っている。僕の小学生の子供たちは、せっせとBB弾を拾っているから、一瞬、あの方もBB弾かなとは思いましたが...。その方、何かを拾いながら歩いていますが、早歩き程度のスピードなので追いつきません。よく観察してみると、その動作も不思議でした。何かを拾っているけど、手ぶら、という事はきっと何か小さなものを集めている様子、でも集めたものをポケットに入れるしぐさもない。

しばらく観察しながらその方の20メートル後ろを歩いていました。その方が何かを穴あきマンホールに入れるのを見ました。僕は目線をそのマンホールから外さず、そのまま歩いていき、マンホールを見た瞬間、色々な思いが出てきました。あの方は、遊歩道に落ちているタバコのポイ捨てを拾って、マンホールに(最終的に)捨てたり、道のわきに(最終的に)捨てて、遊歩道をきれいにしていたのだと。でも、この穴あきマンホールのふたを覗き込んだ時、現実を見て唖然。なんですか、これ、ごみ箱ではないのに。想像するに、多くの人がここをごみ箱としている事実...

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この方の心理を考えると、「みんなが歩く遊歩道に吸い殻がポイ捨てしてあるのはけしからん。遊歩道をきれいにしないと。

①みんなが見えないところに移動させておこう。」、または

②拾うのはいいけど、ごみ袋は持っていないから、排水溝に捨てておこう。」

少なくとも、この方はすごいと思います。環境美化に努めているその心。多くの方はごみを拾おうと思っても、なかなかできないと思います。すぐゴミ箱が近くにあれば良いですが、このような遊歩道だともちろんごみ箱はないし、家に持って帰る、と言うのも困るし。しかも、このコロナ禍だと感染する恐れがあるし、皆さん拾いませんよね。ちなみに、僕は、タバコ吸ったこともないし、そもそも大っ嫌いなので、絶対に触りません(吸い殻見ると、かなり避けて通り抜けています)。

では、何でポイ捨てをするのだろうか?究極的に言ってしまえば、その人の人格・教養、実際の生活での習慣ですね。でも、わかっちゃいるけど、と言う人も多いのでは?色々と調べてみると、この文献には以下のような心理的なパターンがあります。タバコのポイ捨てを例とすると:

①小さいは正義タイプ:ポイ捨ては悪いと分かっているけど、タバコは小さいし問題ない。

②赤信号みんなで渡れば怖くないタイプ:ポイ捨ては悪いと分かっているけど、みんなもポイ捨てしてるし。

③重要性が重要タイプ:ポイ捨ては悪いと分かっているけど、頭の中の重要なことはそれではない。

④責任転換タイプ:ポイ捨ては悪いと分かっているけど、近くに灰皿もないし、携帯灰皿を持つのがめんどくさいし。

⑤楽観タイプ:ポイ捨ては悪いと分かっているけど、まぁいっか。

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少なくとも日本人はポイ捨てが悪いというのが分かっているけど、何かの理由をつけて、しれっとポイ。皆さんも自分の心を正直に見ると、この5個のタイプのどれかに見覚えはありませんか?でも見覚えがあっても、大多数の方はその正直な心で最終的にブレーキをかけると思います。

ここで法律的な観点を見てみましょう。日本には「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」が制定されています。この第1章第2条には廃棄物の定義が規定されています:この法律において「廃棄物」とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、ふん尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体その他の汚物又は不要物であつて、固形状又は液状のもの(放射性物質及びこれによつて汚染された物を除く。)をいう。ウィキペディアの説明を読むと「不要になり廃棄の対象となった物および既に廃棄された無価物」、と書いてあります。つまり、超簡単に一言で言うと「全ての要らないもの」に該当するものが”ごみ”になります。

という事は、厳密に言うと、タバコの吸い殻はもちろんですが、吸っている最中に出てくる”灰”も、日本の法律上の”ごみ”に該当します。タバコお吸いの皆さん、タバコのポイ捨てはもちろんダメですが、灰皿のないところでその灰をぽろっと落とすその行為、法律上の不法投棄になります。そんなの誰も見ていなし、誰も管理していないし、誰も罰則受けたことはないし、とお考えのあたな、人間としての人格を鍛えましょう。その気持ち、人生で損していますよ。

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日本の廃棄物の歴史を紐解くと、もしかしたら、ポイ捨てもごみ文化の一つ、と言う考え方があるかもしれません。そもそも、日本の廃棄物管理の歴史は環境省のパンフレット見ても、70年そこそこの歴史しかありません。最初のころは、公害防止を主目的としていて、ありとあらゆる廃棄物を一般家庭や会社等から遠く離れている埋立処分場に持っていくだけ、と言う簡単なものでした。いわゆる夢の島に持っていけば、あとはどうにかなる作戦。でも、それがどうにもならずに、二次的な公害を発生させたので、廃棄物の環境上適正な管理と言う概念が導入されたのが、全国各地公害がひどかった1960年代以降。それから40年経って、ようやくリサイクルを中心とした次世代廃棄物管理制度が導入されたのが2000年。それから20年経ち、循環経済における高度リサイクル事業や低炭素化社会・脱炭素化社会に合う廃棄物のインフラが求められています。これが、近代社会のごみの歴史です。

ここで疑問。今ここに書いた考え方は、2020年に日本にいる僕、廃棄物を仕事としている人の考え方。近代社会のごみの歴史のうち70年はたかが知れているし、日本の古代文化と言うのは、諸説ありますが、3世紀から5世紀のあたりと言われています。でももっとさかのぼると、現代の人類の起源と言われるホモサピエンスは少なくとも20万年前に出現しており、そのころから、何らかのごみ文化はあったはずです。となると、ポイ捨て、と言うのが普通であることは明確ですね。数万年前のホモサピエンスが、「これはバナナの皮だからコンポスト、これはマンモスの牙だから燃えないごみ」、という会話は、もちろんなかったでしょう。

となれば、ポイ捨て、と言うのが、つい最近までは人間文化では当たり前であった、と言うのが事実でしょう。だってそれしかなかったし、つい最近まではそれでも何事も問題はありませんでした。

本当?と思うと思います。社会科学的に考えてみましょう。少なくとも第1次産業革命が始まる1750年頃までは、私たちの祖先が使っていた資源は、あらゆるものが植物から作られていました。木造の家、竹、木製製品、木の皮製品、など、すべてが植物性。という事は食べても食べなくても、そのままポイ捨てしても、いずれにしても微生物が分解して二酸化炭素と水に戻り、究極の地球エコシステムとして循環し、再び植物の原料となっていました。早かれ遅かれ全部がエコシステムをぐるっと回り、再び植物に戻るため、地球1個を分母としたライフサイクルでは何も変わりません。だから、当時は全てのごみをポイ捨ても、自然と地球に戻っていきました。

ここでようやく、タイトルにつけたSDG12とポイ捨てが繋がります。昔のポイ捨ては、資源循環に重要なアクションだったという事実。長い年月で自然が築き上げた完全なる・美しいエコシステムの一部に、ポイ捨ても含まれていた事実。当時は、もちろん持続可能なとかサステナビリティという考え方はありませんでしたが、ポイ捨てがSDG12の一部であったことは間違いないでしょう。

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色々と文献を読んでみると、江戸時代は今より進んだリサイクルシステムが出来上がっていました。まさしく完ぺきなSDG12です。江戸時代も、石や鉄以外はほぼ全て植物性の資源を使っており、しかもその植物性資源を獲得するために知恵と労力をかけていたので、日常使っていたありとあらゆる製品は貴重でした。環境省が以前作ったパンフレット「北斎風循環型社会之解説」によると、「江戸の衛生的な循環システム」として紹介されているそのシステムは、2020年の社会が求めている理想の「循環経済」のまさしくそれでした。江戸時代中期は、ちょうどイギリスで第1次産業革命が産声を上げ始めたころですが、日本は鎖国していたので、そのまま植物に支えられた日本独自の循環経済を磨いていきました。江戸時代の東京の人口は100万人程度で、当時でも世界最大の都市でした。ありとあらゆる生活から出てきたゴミは、江戸の循環経済の中でぐるぐる回る持続可能な文化であり、貴重な資源をなるべく長くために、あらゆる種類の職人さん(提灯張替屋、算盤修理屋、箍屋、など)が商人をしていました。紙屑拾いや木拾いなどの拾う専門家も、日々せっせと落ちている資源を拾い集めていたそうです。そうなると、ポイ捨てをする人は、周りから、「あいつはなんてもったいないやつなんだ」、と言われていたでしょうね。

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今回の記事の問い「ポイ捨ては私たちの文化?」の答えはと言うと、「はいそうです」、今で言うとSDG12です。200万年前の石器を使っていた原人、20万年前の火を使いだしたホモサピエンス、現代人につながり文化を築き上げてきた5万年前の祖先、今求めている完ぺきな循環経済社会で会った200年前の江戸末期(みなさんの、ひい ひい ひい ひい ひい おじいさんあたりですね)という長い年月の間で、ごみのポイ捨てが日常でした。ごみのポイ捨ては、DNAに刻まれた動作なのかもしれません。

でも、皆さん、今は違いますよ。先ず、私たちの身の回りで、100%天然素材のものはありますか?数えるほどしかないと思います。それと、今は人口が約78億人、社会のルールを守って生活をしていかなければなりません。その中に廃棄物管理は法制度化されています。そして、ポイ捨ては法律違反です。ひい×5回 おじいさんぐらい前までは、すべてが植物性の製品のため、ポイ捨てしても良かったのです。100%自然エネルギーに依存していた人間の生活・社会、ポイ捨てすることで、全てのモノが土に戻っていく持続可能な社会でした。今は、自然エネルギー・天然資源、合成物質を加工して製品を製造。もはや自然の力では土に戻っていかない人工物。その人工物は過去何千万年から数億年かけて自然が蓄積してきた炭素、つまり石油資源から製造されたものなので、ポイ捨てしても燃やしても、それは自然と地球には戻りません。石油製品を使いだしたその瞬間からポイ捨てはだめで、人間が作った製品は、環境上適正な処理・処分をして地球にお返ししなければなりません。だから、私たちの知識とテクノロジーをフル活用して「(あたりまえですが現代版)SDG12 つくる責任 使う責任」を実施しなければなりません。

約78億人のエネルギーを支えるためには、江戸時代のような太陽エネルギーと地球の恵みだけで、今の世の中を続けていくのは不可能です。でも今、私たちは知恵 x テクノロジーを活用して、私たちの社会を変革、パラダイムシフトを起こさなければなりません。何世代か後に、たとえとして「再びポイ捨て文化ができる」ような太陽エネルギー・バイオマス資源が基盤となったグリーンな社会、グリーンニューディールを築いていく必要があります。

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